河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

この国の行き先は?

2020-10-30 16:19:51 | 絵画

新しい総理大臣は「総合的、俯瞰的に・・・」と何度もいろんな場面で述べ、所信表明演説にも、この言葉を用いた。・・・で、どんな未来があるのだろうか?

決して多くの人はテレビの「国会中継」を見ていないと思うが、安倍時代も国会でのやり取りで、総理大臣として野党の質問に誠実に回答した場面がどれほどあったであろうか?

英語ではDo you have 何々で尋ねられたら、YesかNo, I have not何々で答えるのが常識であるが、これらの質問にこの国の総理大臣が「当時は、何々で」とよそ事を言うことがまかり通るのが不思議でたまらなかった。いままた学術会議問題で「何故6人を除外したのか」答えずに「論点外し・・・つまりよそ事を言う」がまかり通っている。

外国生活デビューで日本人が良くやりそうな「失礼」は、向こうのお宅に招かれて「何か飲み物は如何ですか?紅茶、コーヒー、ジュース?それともビール?」と尋ねられて、日本では「お構いなく・・・では、貴方と同じもので・・・」とか、相手に忖度したつもりで返事をしてしまうこと。招待した側が「来客」の希望を尋ねたのに、逆に切り返されて困惑する例は多く見かけた。私も留学デビューでは、こんな過ちを犯していた。

ヨーロッパではたいていどこの国でも「個人の主体性」を表現することで人間関係は出来上がっている。生きていて「何をどうしたいのかハッキリしないということ」は信じられないのだ。だから論理主義、合理主義が根付いていき社会が出来上がっているから、個人が自分の意思を明確に出来ないことは信じられないし、その場面に遭遇したら、相手とおどう付き合っていいのか分からなくなって混乱するのだ。

当の日本人は「相手の心情に配慮した」と思っているから、つまり「礼儀正しく善い行いだ」と思っている。この「相手の心情に配慮する」というのが、ある意味「独善的」なのだ。この「心情」は日本でしか通用しない。個人的な思い込みでも「心情」だから、またこれを押し付けても、この国内では許容されるから、つまり集団の価値観の一部なのだ。この場合、多くの日本人は「善意」は何処の国の人にも通用すると思っている。しかし、実際は違って「心情、人の気持ち」など「悪魔にも分からない」と西洋人は言う。それは国境があって、異なる言語、異なる文化で自律する国が接している以上、「他人が何を考え、何を感じ散るか」分からないのだよ。だから「相手に考えを聞く、要望を聞く」のである。他人の「心情」について聞いても、「個人的なもの」で理解し受け止めることが困難だからだ。

 

私は8年ばかりベルギー、ドイツに留学して、帰国してこの国に社会復帰するのに3年を要した。前にも書いたことがあるが、帰国直後は「日本語の言葉の意味は分かるが、相手が何を言おうとしているのか分からない」というのが3年ぐらいは続いたのである。

この国の国民性として、直接的に伝えたいことをズバリ述べることは「僭越、失礼」とされていて、相手が目上ならへりくだってものを言うのが礼儀とされる。

お店で「神様のような振る舞い」をする客がいるのは、一つの特徴として現れているとも言える。店側がへりくだっていなければ、大声を出したりして自分の要求に従うように強要する。(ホリエモンよ!!ただの悪質なはみ出し者になるな!!マスク着用は全体主義でも何でもなく、お互いの思いやりなのだよ・・・とよそ事を書いたが)

この国が島国であるために外の世界から「物」は簡単に入って来ても「心」に当たるものはなかなか根付かないのは仕方がないが・・・・民主主義の理解と定着とか論理主義とかは世界の国々から信頼されるために大事な用件であろうに。

留学から帰国して40年近くたって、当時に私が感じたストレスが繰り返している。当時よりもっとひどくなっているとも言える。この国の素晴らしい未来が見えないのだ。

この国はよその国からどう見られているかすごく気にするが、その指摘を受けても良く見えるようにしようとは考えない・・・いや、最終的に鈍感で感じられないのだけれど。心に縛りがあるのだ。明治の開国で西洋から多くの者を取り入れたが「和魂洋才」といって、「日本人の精神で」と「洋才」に当たる学問や知識が実際には「西洋人の精神」を基礎に出来上がっていることを「無視」してきたのだ。良い所どりと言うか、国民レヴェルの、そうした「集団の価値観」が定着し、かなりポピュラリズムとして概略的な理解を広めて国民をまとめようとする権力者の流れが出来上がったのだ。ここで利用されてしまうのは「心情」なのだ。

決して日本人は論理性や合理的な理解が出来ないのではなく、そうさせない「曖昧」で済まそうとする権力者がいるから「美しい日本」とか言って訳の分からない状況でやり過ごそうとする総理大臣が・・・・心情を利用してきた。

習近平や金正恩のようにイデオロギーに当人の性格の悪さをくわえた権力者に、この国のように明確な思想なしに、ただ性格が悪いだけの政治家集団で支配されても同じことが起きているのだ。

この国を明るくするには「個人の自律」が必要。そして「個人責任」「個人の尊重」と「誠実さ」だろう。

おまけ:

いや、今日医者に行ったら周りは「高齢者」ばかりで、自分も高齢者だけど、女性で腰や背中が曲がって辛そうに歩いている人が多いのはこの国特有だと思う。40年前ベルリンで一人だけ腰の曲がったおばあちゃんを見かけて、珍しいと思ったものだ。しかし日本に多いのはこの国の高齢者の生活習慣が原因だと思う。年を取って社会から断絶し、都会にいても家から余り出なくなって座布団に座ってテレビを見ている。(そう言えば島根県の山間部の町で町のテレビアンテナを撤去したら高齢者の町民が直訴したというニュースがあった。山の中の絶滅集落では恐ろしい現実がある)

椅子に座るのではなく床に座るのは「足」に悪い。余計に筋肉や骨に負担をかけ歩きにくくなる。テレビしか外界と繋がらなくなると頭にも悪く、認知症になりやすくなる。年寄りは未来に期待しないで、これまでと同じであれば、それで良いと考えるのは普通になっている。ゲートボールでもすれば、ばあちゃん!!でないとオレオレに騙されるよ。

今日はお医者に行って、待合室で座っているばあさんたちにスクワットを教えた。

 


ハンコがなくなる!!ついでに!!

2020-10-29 10:48:34 | 絵画

やっとハンコが無くなりそうだ。お役所でハンコを忘れると「規則ですから」と手続きも進まなかった。拇印ではどうかと聞いても拒否され、家に帰って来直さなければならなかったのが、無くなれば良いといつも思った。拇印を拒否するのは、行政文書でもそれほど厳密なものではなく、規則という形式のものだからである。

外国人も日本に住めばハンコを作らされた。私の元カノはカタカナで小さな丸にマリリンと作らされて、余りのつまらなさに呆れたものだ。

三文判を作る会社は商売が挙がったりになるが、もともと原価が10円くらいのものを100円で売っていたのだし、大量生産でハンコの持つ独自性はなかっただろう。何処にでもある三文判を買うと私は他人と区別するために縁のどこかに傷をつけておいた。

行政文書であろうが、契約書であろうがハンコを突かせるのは、日本だけだろう。ヨーロッパの機関では機関が受け付けた日時まで入れた「スタンプ」を押すことがあるが、ハンコと目的意義が違う。電車に乗って切符の検査に、これもスタンプを押す。そうハンコとスタンプではその利用目的が違っていたので、スタンプは残ることに異議はない。

私はデッサンに押す落款(らっかん)を真似た印章を作ったことがある。実は中国に行って、余暇に文房具屋を回って、紙と筆そして印章を彫る道具と滑石を購入した。今は画材室の片隅に埃をかぶっているが、画家が押す落款は作品の完成を認める事と、偽物を防ぐ目的で押す。これはその作品の表現の一部であり、美的な表現の一つとして、そこにあらねばならないから、作者はそれほど気を使うのものである。

いずれにせよ、目利きであれば作品が誰の手に依るかは落款など無くても帰属させられるはず。そういう意味ではハンコ文化の無かった西洋ではサインが大事だった。手書きのサインがあれば個人を確定できることが合理的であることは明らかだ。(実は実家の土地に接した道路工事の際に業者が「認印」を求めたが、そのハンコを押したのは所有登録した本人ではなく、親戚のものであった。その後、いつの間にか我が家の土地は業者のミスで他人の土地になってしまったことがある。三文判を押してもこういう事に使われた。もし所有者のサインが必要であったら、このようなことは起きなかった。)

しかし何故、非合理的なハンコ文化を延々と続けたのか?この国の文化には「形式」がいっぱいあって、これが日本人の独自性だと思い込んでいる人が多いのだ。これまで長い間継承してきたものは疑いなく存在させ受け入れる・・・ここに「多様性や革新を拒む集団の価値観」がある。日本人の「曖昧さ」の根源でもある。例えば、貴方は「仏教徒」あるいは「神教徒」だろうか?心情的に除夜の鐘を突きに行き、葬式、法事を行い、祭りにはみこしを担ぎ、お賽銭もあげる?

ハンコについては「無くても良い」と考える人は「絶対なくしてはいけない」と考える人より、何となく多くなるであろうから・・・河野太郎は大臣に成ったら言ってみると気楽に思えたであろう。実印の扱いについても正当な解釈を示せるかどうか!!婚姻届けに不要ならもういらないではないか。

似たような問題はこの国にはたくさんあって、ハンコをつく紙が要らなくなって行政事務はあっというまに合理化されるだろう。

もう一つ合理化して欲しいことがあって、それは「元号制」である。公文書にはこの元号制が決められていて、私の免許証は有効期限が「平成33年」とある。これって「令和」いうと何年?

美術館勤めで公文書を扱っていた時には、海外とのやり取りでは西暦で、館内文書では元号表記で・・・と、するとあの工事は、展覧会は何年だった?とか面倒くさかった。こういうのを非合理的というのだが、公務でのエネルギーの無駄が一番閉口する。

「元号表記法」を制定したのは「安倍」ですよ。「美しい日本」とか言って、訳の分からない「心情」を押し付けて・・・それは安倍にとって「信条」だったのです。思想信条の自由というのが憲法には保証されているけど、曖昧にして説明が出来ない信条を押し付けてはいけないのだよ。菅はそれを継承して、学術会議の問題も「いえないこともある」と・・・言えば政権支持率はあっという間に50%を下回っただろうから、「政権に反抗する者は切った」とは白状しないのだ。

人間が作るものは「未完成なもの」であって、絶対的な価値を与えてはいけない。人は権威とか勲章とか好きみたいだけど、聖書にこういう言葉がある。

「神は人の頭に冠を授けず」

ああ、天皇も国王も人が作ったものだからね。

 


聖書を買った

2020-10-27 15:28:29 | 絵画

最近、最新約の新旧約合冊の聖書を買ったのだが、二十歳の頃も新約と旧約聖書を持っていたが、引っ越す度に、いつごろか見当たらなくなっていた。当時は激動の時代で、記憶も定かではない。仕方なくまた買ったのだ。(突然、信仰に目覚めたのではありません)

70年安保の時が18歳で、山口高校を卒業して、東京で浪人中の頃。安保の頃は時に赤いヘルメット(反帝戦線)、個人的には黒いヘルメット(アナーキスト、べ平連)であった。70年の6.23デモで代々木公園出口で水色のヘルメット達が討ち死にした・・・つまり機動隊に突っ込んで皆ボコボコにされて逮捕されるのを見た。私は赤いヘルメットでデモの最終地点である日比谷公園に向かっている最中に、機動隊に横から腹を警棒で何度も突かれた。デモをしているだけで警察から暴力を受けたのだ。多くの機動隊員は即席の募集でかき集められた若者で、全国からやって来た同じ年くらいの若者であった。高校を卒業したくらいの若者だ。少し年を食ったやつが暴力的だった。

日比谷公園に入ったデモ隊は皆投げるための石を捜していたが、どこも小さなものから手ごろな石は無く、コンクリートの溝のふたを起こして、投げつけて割っていた。それを機動隊に投げるのだが、大きすぎて届かなかった。その内、機動隊の催涙ガスの一斉射撃が始まって、そこいら中が白い煙で見えなくなっていった。ガス弾は放物線を描いて撃つことになっていたのだが、実際は水平射撃で、あからさまにデモ隊を狙っていた。このガス弾に当たって、知り合いが顔を撃たれて、ガス弾の燃える粉末を浴びて、顔半分がただれて半年ばかり治療する羽目になった。

デモ隊はボコボコににされる一方で終わった。翌年の春芸大の試験に落ちたが、滑り止めの東京造形大学に合格して、仕方なく入学した。

この頃である、人生の意義について悩みぬいた。モルモン教も覗いてみたし、座禅も組んだ。しかし哲学書も高橋和己も何の役に立たなかった。生きる上で何を自分に求めるのか、他人に何かを求めるのではなく、自分が自分の生き方を決めるとだけ自覚したのだ。(本当の自覚はブリュッセルに行って、自分の能力に悩んだ時に得られた)

この頃だと思う、悩みながら聖書を買ったのだ。何かの助けになったかと言えば、西洋古典絵画を学ぶ上で、キリスト教やギリシャ神話は制作テーマとして当たり前の内容として出て来て、何をどう表現しようとしたのかを考える上では聖書はちょっとした参考書だった。

絵を見るとき、観念的に何が描かれていることから入るのではなく、見た感じがまず一番先に「訴えているもの」をそこに存在させているかどうかで、その作品を鑑賞してきた。つまり聖書のテーマであれば、結局何がどう描かれてあるかは二の次で、作者が「芸術的世界観」を持っているかどうかが興味の対象だったのだ。まだイタリア・ルネッサンスの曙の前に当時の画工としての技法や点前(たてまえ)を記述したチェンニーノ・チェンニーニは「無いものを在るがごときに描く」のが画工の仕事だと、信仰心で描いたイコン画家とは異なり、既に芸術家としての個人的表現能力に重きを置いていることを宣言したのだ。こうした自立心が無ければ、天才を輩出する文芸復興にはならなかっただろう。しかし、当然のこととして、画工たちにとっても聖書に書かれた場面は事実関係を尊重した物語を想像する力は求められたのだ。

旧約聖書を読まれた方は、そこに書かれていることは謎解きで「虚構」のように感じるだろう。旧約聖書が書かれて時代には「言語」が象徴的な意味を持っていて、言葉を交わす人々には独自の世界を理解したのだろう。

そうそう、私が最も若い時に・・・それは3歳の時であったが、父の仕事で田舎の山の中から、山口市に引っ越して最初に住んだ家がフランシスコ・ザビエルが洗礼を行った家の三畳と四畳半の二部屋を間借りして一家四人は住んだ。当然、水はザビエルが洗礼を行った井戸から飲み、風呂もそこから水を汲んだ。そこの大家さんはカソリックの老夫婦で優しい人たちだった。三歳児の私は実に親切にしてもらった。また離れの二階にはプロテスタントの牧師さん夫婦が住んでいた。私は田舎では三歳保育で保育園に通っていたが(二つ上の姉と二人で1kmの道のりを毎日通っていたのだ)。ザビエルの家では私はまだ3歳だったから、すぐそばの大殿小学校を道を挟んで出入りし、汚いどぶでオタマジャクシをとって遊んでいた。時々牧師さんの部屋に呼ばれて、紙芝居や遊びを教えてもらった。その縁で日曜学校にも通ったが、長続きしなかった。訳は知らない。幼稚園に行き、隣の小学校に行く頃、また引っ越した…今度は大きな家だった。

そういう訳で、キリスト教と聖書はさほど違和感が無かったのである。

フランドル絵画に魅了された私はファン・アイクは勿論だが、好みとしてはボッシュやブリューゲルに傾倒した。そこに描かれている「ヨハネの黙示録」から描かれた世界は私の感性をぞくっとさせた。要するに人間の世の終末であり、この世に「生まれたことに対する回答」なのだと思い、自分に受け入れさせているのだ。

聖書を全面的に受け入れてエヴァがアダムの肋骨からできたなどとは思わないから、アメリカ合衆国の福音派のようなややこしさはない。しかし昔持っていた聖書の冒頭にこう書かれていた「はじめに言葉ありき、言葉は神であった」という一節に、私はこの「言葉」とは「宇宙の法則」のことであり、宇宙すべてを支配しているとすれば、宇宙を構成する最も小さな単位である「素粒子」こそ、すべてを支配している・・・と解釈した。その素粒子が法則を持っていて我々を作っていると思うようになった。どのような法則なのかは「人間として生まれ、生き死ぬ宿命」の中に感じて絵にしてみようと思うようになった。

世の中、子供は怖いおじさんがいなくなったら、その者はお終いさ。総理大臣になると怖いものが無くなるみたいだね。学者さんたちには「総合的、俯瞰的活動を求める」なんて言っておいて、自分はこれからの日本をどうするのか所信表明演説では「スカのミックス」では省もないだろうに。

生きている実感が人格形成の中身によって、個々人でこうも違うと・・・・。権力志向した者は、その権力をふるうとき優越感があるのかね?

他者に対する優越感は人殺しの次に罪深いと・・・聖書に書かれているそうな。絵を描くとき優越感はないけど、自己満足があるんだけど・・・それを人に見せるつもりだから・・・見せるときには優越感があるかも。


栗拾い

2020-10-14 12:27:03 | 絵画

今年の天候が不順で、梅雨の長雨に、その後の日照りで作物の出来は悪く野菜や果物の価格が高騰して、コロナと相乗効果でガッカリだな。

岩国の実家を父の死後受け継いだが、浜田から155kmぐらいあって、そうしょっちゅうは訪ねることが出来ない。だから不在で庭や畑には雑草が生え、墓の掃除に行くのに雑草をかまで切り倒しながら行かねばならない。こうした雑草は夏場には2回、3回と除草しないと、すぐに生えてくる。

我が家は200坪の宅地に、70坪の母屋、30坪の離れと蔵があり、掃除だけでももう嫌になる。畑と田んぼは4500坪、山がおよそ5000坪ある。私は相続したくないと言いまくったのだが、なんせ姉は名古屋だし、「そんなものいらん」でお終い。結局法務局へ行って手続きを・・・自分でやった。これだけの土地家屋は大都市なら億万長者の大金持ちだろうけど、岩国市と言えども市街から25km、近所の町である柳井、光、徳山の各市までやはり25kmぐらい離れているへき地だ。買い手もなく、借りてもない場所にある。救急車で運ばれる病院まで到着する間に死ぬだろうね。

やはり困るのは、管理で不在地主だと「泥棒が入る」「畑は荒れる」で面倒ばかり。

今回は栗拾いに行ってきた。なんせ毎年栗泥棒にやられて、半分以上持って行かれ、残りは「イノシシ」に食べられている。その残りを私が拾うのだが・・・。前の日にどれほど収穫が見込まれるかチェックしたが、翌日にはまた前夜のうちにイノシシが食べた痕がある。毎夜来て食べているから、スペインのドングリを食べて美味しい肉になる「イベリコ豚」と比べて、栗だと、きっともっと美味しいと思う。夜中に暗い中、「槍」を構えて待ち伏せでもするか!(イノシシは真っすぐしか走れないらしい・・本当?)・・・と馬鹿なことを考えるが、猪肉は美味しいよ。

しかし栗の間に大きな「糞」を見つけた。半端じゃない大きさ。私のウン子よりでかい。さんざん食ってクソまでするとは、けしからん。

でもまあ、栗はスーパーのかごに半分程度は拾ったから、これ以上疲れるほど頑張ることもないと思って、隣の家の幼馴染のよっちゃん夫婦に好きなだけ取って良いよと言っておいた。まだこれから落ちてくる木もあって、相当量は収穫できると思う。しかし落ちた栗は、雨が一度降るとカビが生えるし、虫食いが進行するから。

いつも悔しいから毎年、出かけて栗拾いするが限度がある。来月の半ばにはまた来て「ゆず」を収穫する。これも同様に良く盗まれる。枝を折って持って行く者もいる。ゆずはイノシシは来ないからまあ良し。ゆずは紅葉が始まって霜が降りる前に収穫しないといけない。ゆずは霜によって身の表面が柔らかくなって汁も取れなくなる。

今回は他に太陽熱温水器が故障して、お風呂に入れないから修理することにしていた。来て直ぐポンプの電源を入れると屋根からお湯が吹いていたからびっくりした。屋根の上の熱吸収パネルに水が溜まる仕組みは「水洗トイレ」の貯水槽と同じ仕組みだから、ふたを開けてみたらフロートが壊れていたので「全交換」した・・・がお湯が風呂に降りてこない・・・。おかしいが・・・どうもパイプに何か詰っているようだ。結局、今回は解決しなかった。こんなことをしていたら直に、5日たってしまう。もう帰らないと浜田では猫が待っている。

結局、栗を拾って帰るだけの帰省だった。夕刻7時20分に出て、155kmを休みなく車で走って、浜田の家に着いたのは11時過ぎ。つまり3時間半かかったことになるが、おかしい・・・ほとんど錦川沿いのくねくねした道を60kmで休みなく45km走って、県境の山越えをしたが、周りに車が居なくなってからは70km、いや80kmも時には出ていたはずだが、いつも3時間半かかる。いやくたびれて、運転で疲れると興奮がやまないので、疲れていてもすぐには寝れない。

帰宅すると猫たちがいない。洗い桶にてんこ盛りにしておいたカリカリ7kgは一粒もない。悪いことをした。ステンレスの茶碗をかんかんとたたくとぞろぞろと帰ってきた。子猫も元気だった。缶詰のマグロにむしゃぶりつく子猫は、私が留守の間にたくましくなったようだ。

 


Go to トラブル

2020-10-06 13:13:38 | 絵画

学問の研究者の専門性に政治が口出しだけでなく、権力を行使した今回の日本学術会議の6人の任命拒否は「権力に反抗する者は排除する」という安倍政治を露骨にしてしまった菅は総理の器ではないだろう。とがめられて何でも良いから説明しておけば良いと思っているようだが、何ら説明になっておらず、学者の専門性に触れることが出来ないから、押さえつけるだけが手段になる三流、四流国家の中国の習近平に似て全体主義でこの国の民主主義を壊していることに悪気がない。内閣人事局を作ったとき、政治家よりものを知っている官僚に勝てないから、人事をコントロールする三権分立を壊しても平気な安倍や自民党が、この制度で無能な自分たちに官僚を従わせる国を作っていしまった構図と全く同じ。

東京大学の教授をしている友人にメールしたら、「任命拒否反対」の署名活動のメールが帰ってきた。彼も日常に危機感を感じたに違いない。

この国が島国で、隣国から物心両面で影響を受ける西洋の国と違って、内向きにガラパゴス化しやすく保守的になって世界に通用しないメンタリティーを育んできたのは、戦後長きにわたって与党として君臨した自民党の保守性で、純粋な保守ではなく、自分たちに都合の良いように周りが大人しくしている保守である。一時期世界からどう思われているか気にする日本人であったが、どうも最近はそれさえも気にせず、(自信を得たのではなく)世界の趨勢に鈍感になっている。

この国が学問や教育において政治の都合よい方に流れれば、経済金融に於いても今以上に後れを取るだろう。ノーベル賞学者である山中伸弥先生に10億円の研究補助金を出すのを泉補佐官と坪井審議官が圧力をかけて、自分たちの思うように従わせようとした事件があったが、愚か者ほど権力を握ると国家の利益より自分の個人的な利益を得ようとする。

トランプよりましだとか言わないで欲しい。あいつは人類の恥だ。大きな戦争が終わって、75年も経つと、為政者も再びおかしくなって、平和や人々の幸福についてないがしろにする者たちで支配されるようになるのが人間の歴史だろうか?確か昔読んだ「聖書」のヨハネの黙示録に「神は毒を持つイナゴか何かを解き放ち・・・コロナを民衆に与える・・・」ようなことが書いてあったような気がする。安倍のGo toトラベル・・・違うだろ・・・トラブルしか残らないぞ。

コロナの後、貴方はどんな世の中を望むだろうか?