新しい総理大臣は「総合的、俯瞰的に・・・」と何度もいろんな場面で述べ、所信表明演説にも、この言葉を用いた。・・・で、どんな未来があるのだろうか?
決して多くの人はテレビの「国会中継」を見ていないと思うが、安倍時代も国会でのやり取りで、総理大臣として野党の質問に誠実に回答した場面がどれほどあったであろうか?
英語ではDo you have 何々で尋ねられたら、YesかNo, I have not何々で答えるのが常識であるが、これらの質問にこの国の総理大臣が「当時は、何々で」とよそ事を言うことがまかり通るのが不思議でたまらなかった。いままた学術会議問題で「何故6人を除外したのか」答えずに「論点外し・・・つまりよそ事を言う」がまかり通っている。
外国生活デビューで日本人が良くやりそうな「失礼」は、向こうのお宅に招かれて「何か飲み物は如何ですか?紅茶、コーヒー、ジュース?それともビール?」と尋ねられて、日本では「お構いなく・・・では、貴方と同じもので・・・」とか、相手に忖度したつもりで返事をしてしまうこと。招待した側が「来客」の希望を尋ねたのに、逆に切り返されて困惑する例は多く見かけた。私も留学デビューでは、こんな過ちを犯していた。
ヨーロッパではたいていどこの国でも「個人の主体性」を表現することで人間関係は出来上がっている。生きていて「何をどうしたいのかハッキリしないということ」は信じられないのだ。だから論理主義、合理主義が根付いていき社会が出来上がっているから、個人が自分の意思を明確に出来ないことは信じられないし、その場面に遭遇したら、相手とおどう付き合っていいのか分からなくなって混乱するのだ。
当の日本人は「相手の心情に配慮した」と思っているから、つまり「礼儀正しく善い行いだ」と思っている。この「相手の心情に配慮する」というのが、ある意味「独善的」なのだ。この「心情」は日本でしか通用しない。個人的な思い込みでも「心情」だから、またこれを押し付けても、この国内では許容されるから、つまり集団の価値観の一部なのだ。この場合、多くの日本人は「善意」は何処の国の人にも通用すると思っている。しかし、実際は違って「心情、人の気持ち」など「悪魔にも分からない」と西洋人は言う。それは国境があって、異なる言語、異なる文化で自律する国が接している以上、「他人が何を考え、何を感じ散るか」分からないのだよ。だから「相手に考えを聞く、要望を聞く」のである。他人の「心情」について聞いても、「個人的なもの」で理解し受け止めることが困難だからだ。
私は8年ばかりベルギー、ドイツに留学して、帰国してこの国に社会復帰するのに3年を要した。前にも書いたことがあるが、帰国直後は「日本語の言葉の意味は分かるが、相手が何を言おうとしているのか分からない」というのが3年ぐらいは続いたのである。
この国の国民性として、直接的に伝えたいことをズバリ述べることは「僭越、失礼」とされていて、相手が目上ならへりくだってものを言うのが礼儀とされる。
お店で「神様のような振る舞い」をする客がいるのは、一つの特徴として現れているとも言える。店側がへりくだっていなければ、大声を出したりして自分の要求に従うように強要する。(ホリエモンよ!!ただの悪質なはみ出し者になるな!!マスク着用は全体主義でも何でもなく、お互いの思いやりなのだよ・・・とよそ事を書いたが)
この国が島国であるために外の世界から「物」は簡単に入って来ても「心」に当たるものはなかなか根付かないのは仕方がないが・・・・民主主義の理解と定着とか論理主義とかは世界の国々から信頼されるために大事な用件であろうに。
留学から帰国して40年近くたって、当時に私が感じたストレスが繰り返している。当時よりもっとひどくなっているとも言える。この国の素晴らしい未来が見えないのだ。
この国はよその国からどう見られているかすごく気にするが、その指摘を受けても良く見えるようにしようとは考えない・・・いや、最終的に鈍感で感じられないのだけれど。心に縛りがあるのだ。明治の開国で西洋から多くの者を取り入れたが「和魂洋才」といって、「日本人の精神で」と「洋才」に当たる学問や知識が実際には「西洋人の精神」を基礎に出来上がっていることを「無視」してきたのだ。良い所どりと言うか、国民レヴェルの、そうした「集団の価値観」が定着し、かなりポピュラリズムとして概略的な理解を広めて国民をまとめようとする権力者の流れが出来上がったのだ。ここで利用されてしまうのは「心情」なのだ。
決して日本人は論理性や合理的な理解が出来ないのではなく、そうさせない「曖昧」で済まそうとする権力者がいるから「美しい日本」とか言って訳の分からない状況でやり過ごそうとする総理大臣が・・・・心情を利用してきた。
習近平や金正恩のようにイデオロギーに当人の性格の悪さをくわえた権力者に、この国のように明確な思想なしに、ただ性格が悪いだけの政治家集団で支配されても同じことが起きているのだ。
この国を明るくするには「個人の自律」が必要。そして「個人責任」「個人の尊重」と「誠実さ」だろう。
おまけ:
いや、今日医者に行ったら周りは「高齢者」ばかりで、自分も高齢者だけど、女性で腰や背中が曲がって辛そうに歩いている人が多いのはこの国特有だと思う。40年前ベルリンで一人だけ腰の曲がったおばあちゃんを見かけて、珍しいと思ったものだ。しかし日本に多いのはこの国の高齢者の生活習慣が原因だと思う。年を取って社会から断絶し、都会にいても家から余り出なくなって座布団に座ってテレビを見ている。(そう言えば島根県の山間部の町で町のテレビアンテナを撤去したら高齢者の町民が直訴したというニュースがあった。山の中の絶滅集落では恐ろしい現実がある)
椅子に座るのではなく床に座るのは「足」に悪い。余計に筋肉や骨に負担をかけ歩きにくくなる。テレビしか外界と繋がらなくなると頭にも悪く、認知症になりやすくなる。年寄りは未来に期待しないで、これまでと同じであれば、それで良いと考えるのは普通になっている。ゲートボールでもすれば、ばあちゃん!!でないとオレオレに騙されるよ。
今日はお医者に行って、待合室で座っているばあさんたちにスクワットを教えた。