突然だが東北大震災のことを思い出した。2011年3月11日金曜日、午後2時46分に発生した大地震は東京にいて仕事中だった私にも大きな記憶となった。
なぜ今大震災のことを思い出したかというと、今住んでいる浜田市のみんなの釣り場となっている瀬戸が島波止でちょい釣りを楽しんでいたら、何やら見物の男性が話しかけて来て、全く訳の分からぬテーマで、自分はいろんなところに行って来て、皆が思っていることとは違うことを見てきたといわんばかりに「北方四島の近くの漁師はお金を払って漁をし、もはや北方領土はロシアのものと考えているとか、福島の震災で被災した人たちはもはや何も感じていないとか・・・言うもので私はこのような自分の一部の経験だけで全てを一くくりにして考える者に腹が立つので(似たようなことを言うひろゆきさんと呼ばれる者が居る)・・・・ついに堪忍袋の緒が切れて「この馬鹿野郎!!福島の被災者が苦しんでいなと思うのか!!」と怒鳴ってしまった・・・こんなことは西洋美術館に奉職していたころ以来だった。
そして東北大震災が私の心に何を残したかと思い出した。
この日、3月11日金曜日は西洋美術館では企画展の内覧会の日で、招待客200名ばかりに展覧会を紹介する行事が行われていた。午後二時から開場で私は庶務課の女子とともに大使館関係など外国人客の受付を当番を言い付かっていた。地震発生時の2時46分と言えばほとんどの招待客は地下の企画展会場に収容されており、遅れてくる人はまばらであった。
外人客受付の私は「そろそろ終わりだね」と言った矢先にぐらッと来た。しかし会場受付の本館はレトロフィットと言われる既存の建物に地下深く掘って免振装置を取り付ける工事が行われており、その揺れはゆっくりと伝わってきた。しかし免振工事がされていながら大きく感じた揺れに、私はこの時とばかり前庭に飛び出て、同じく前庭の彫刻に苦労して取り付けた免振装置の効果を確かめたかった。前庭の一番の苦労はロダン作の《地獄の門》だったから、私は《地獄の門》の前に立ってその動きを観察した。前庭の周辺の欅(けやき)の木とは同調しない動きだがそれぞれみな揺れているのを見て感激したのを覚えている。予定通りの動作が繰り返され安心とともに大きな安心感を得た。自分のやった仕事に満足したのは少ないが。前庭に「仁王立ち」になりどや顔の自分を思い出す。
慢心して受付に戻ったら庶務課の女子たちが私を非難し始める「河口さんは皆を置いて一人で逃げた・・・」と。
「え!!??いや違う!それは地獄の門がどう動くか見たかったのだ」と言っても非難は止まなかった。もう言い訳は聞いてもらえないと悟って、事務棟に戻ってテレビの地震情報を確認した。テレビにくぎ付けになったのは大津波が発生して人や家、車が飲み込まれる画面だった。怖ろしいことが起きているのにすべてを受け入れなければならない現実に目を開けていられない。
美術館の招待客たちは一部の人たちは飲食が提供されていたので、さっさとつまんで帰宅した人も居て、皆が皆帰宅困難者になったわけではなかったが、私が任官した当時の次長(現副館長)が私を頼って庶務に訪ねてきた。電車が動かなくなってしばらく非難するしかないので私の研究室に置いて欲しいとのことであったが、私は直ぐに飲食に残りをもらいに行った。小さなサンドイッチだが何もないよりはよかった。二人で地震情報、交通情報を気にしながら電車が動き出すのを待った。上野を通る銀座線がまず動き出したが翌日の3時を過ぎていた。次長とは途中まで一緒しようと新橋駅まで行ったが、私の都営浅草線はその後4時半過ぎまで動かなかった。その後の記憶がないが・・・。
都営浅草線終点の西馬込の自宅に着いたのは朝の5時過ぎであったが、四階建てのALC鉄骨造りの四階に住んでいた当時、家で留守番していた猫たち6匹にとってまさに恐ろしい体験であったと思う。冷蔵庫の扉はすべて開いたままで・・・
工事中です (まったく長い間加筆できなかったのは、ポイントをためるキャンペーンに参加しないでGooIDを打ち込まないと投稿ページが開けないという不親切が3か月ごとにやってくるため・・・・読者には大変申し訳ないことをしました。私としてはGIDは何度打ち込んでも開かない「愚」にもうブログは止めたと、諦めて他の方法を捜そうと思っていたところだが、突然また出来るようになると・・・腹が立って、この言い訳を書いている)
そう、東北大震災を東京で経験してどうであったかと言うと、家では猫が一番可哀そうであったと・・・帰宅してから思ったが、主の珠ちゃんは一番最初に飛びついてきた。「とうちゃん!!こわかったよー!!」と言う感じ。
「みんな無事かー!!」と声をかけても姿を見せない子もいる。点呼を取るとぼちぼち出て来る。
テレビはひっくり返って台から落ちていた。台所の食器棚は倒れないように壁にビスで止めてあったので全く問題なし。だがテーブルの上に置いておいたものは全て落下し、最も悲惨であったのは「てんぷら油鍋」が・・・床をべちょべっとにしていたこと。窓ガラスが割れていなかったのは幸いだった。
もし東京直下地震であれば、こんなものでは済むまい。家も住めなくなるほど壊れ、町の明かりも多くは失われた廃墟になるはずだ。神戸の震災の時に「文化庁災害派遣」で二週間後に神戸に入ったときそこががれきの街になっていたことは現代都市の弱点が被害を大きくしていたことは教訓だったが・・・。
大震災の津波の状況は海外でも報道された。翌日直ぐにゲッティ美術館の彫刻修復部長のジェリー・ポダアニーからメイルが入った。救援活動に行く準備をしている。必要ならすぐ行くから呼んでくれ・・・と。しかしテレビで見た通り東北沿岸の町の被害は津波に集中していおり、奥地での被害は美術館など意外と小さかった。それと連絡が伝わらないから神戸の時と同じに考えられなかった。ジェリーには「今毎日、津波の被害者のニュースで宮城県の海岸線に200人を超える溺死者の遺体が流れ着いていると聞いている。人的被害の救済に集中している現状で今なにも出来ない。申し出、連帯感ありがとう」と返信して、こちらも被害状況を知りたかった。
救援活動の準備に取り掛かって、現地に行くことを学芸課長に求めたら、「文化財救援活動は文化庁がやるから行くことはない」と全く現場の経験の無い若造の学芸課長は官僚的な返事しかしない。いや、私の保存修復の役割そのものに理解の無い男で、ことときは本当にむかついた。
この時期に悲しいことが起きた。兵庫近代美術館の保存担当者のTさんが自死した。やはり救援活動に出かけて官僚的な抑圧で思うように自分の意識が発揮できなくて失望し「鬱」に陥り自死を選んでしまった。それまでに職場での周囲の理解の無さがストレスだったようだ。私の方は月一の定例会議で館長が彼の自死について私に聞いてきたが・・・「私はまだ死ねません」と言ってやればよかった。
実は震災の2年前に西洋美術館で「美術館・博物館の地震対策」という国際シンポジュウムを開催した。先に述べたジェリー・ポダアニーに誘われてロスアンジェルスのゲッティ美術館で第一回のシンポを開いたときから、私は庭の「地獄の門の免震化」について発表し、その後イスタンブール、アテネと開催し4回目が東京だった。そして翌年にみんなの発表原稿を報告書にして刊行してせめての義務を果たした。しかし地震被害が想定される美術館にはこの報告書を送ったが東北大震災の時に役に立ったであろうか?
大震災の救援活動を邪魔されてから・・・・週末に猫と犬のエサをもって福島に車で出かけた。常磐道の先は傷んでいたが、神戸の時ほどではなかった。いわき市で取り合えず下りて、街中を目指した。どうも美術館は人の気配がなく訪問しようもない状態だったが建物の周辺の植栽や地面が盛り上がっていたりした程度であった。被災民を収容してる学校などを捜したが上手く見つからなくて、自衛隊の装甲車が出入りしている市役所だったか、そこで聞いたが、らちが明かず、しょうがないので保健所を訪ねた。放置されている猫や犬の世話をどうしているかと言えば、彼らは保健所から動かず日ごろの仕事のようなことばかりしている。段ボール箱に入れられて棄てられた猫の親子(生まれて2週間程度の子猫8っ匹と母猫が檻に入れられていて、私が行ったら啼いて、まるで助けを求めているようだったので「この子たちはどうするのです?」と聞いたら「欲しい人を募集します」という。しかし被災してペットの世話が出来ない人が多くのペットを遺棄している状態の時によく言うとおもった。もし貰い手がなくて殺すようだったら私が面倒見るから「くれ!!」と言って名刺を置いてきたが・・・連絡はなかった。そこに犬と猫のエサ1万円ほどを寄付してきた。
あれ以来、東北に出かけることはない。