首都東京から田舎町に引っ越して10年が過ぎた。年も取り、元気がなくなって来て、次第に行く末が見えなくなってきた。いとこから「やるなら今しかないよ!!」とハッパをかけられたこの先の生き方。
父が亡くなって生家である岩国のへんぴな家と田畑に山まで相続してしまった。要するに誰かが実家の世話をしなくてはならなかったから・・・。父が生きている頃、父は「お前とは一緒に住まん」と言い、私は少なくても東京より近場の島根県浜田市に家を見つけた。その浜田にもう10年になるのだ。最初はヒラマサや大鯛の80cmオーバーを釣ろうという夢もあったが、釣り具を盗まれたり、隣の地所とのいさかいもあって訴訟で3年半も費やすなどバカげた生活にウンザリしても、直下地震が来ると野良猫まで含めて13匹を連れてきたてまえ、すぐに音を上げることも出来ず、今日まで来た。
家が二つもあるというのは良くない。しかもどちらも私の理想からほど遠い。理想は必要とあらばすぐ見上京でき、またフランドル絵画を訪ねてヨーロッパを旅できるだけの環境だった。今の家でも絵は描けるが、なんせ交通の便が悪く、車が頼りである。浜田から県庁所在地の松江は120km、山口に120km、広島に100km、岩国の実家にまで155kmあるから、丁度いずれからも隔離された感じがする。
実は浜田に住んで見てわかったことだが、市町村合併で周辺の町村と合併し、やたら面積は増えているが、住民はやっと4万人で、1960年代に既に「市」であるには3万人以上必要とされてきたはずだが、今になってやっと4万人で、その内の4割以上が無税、つまり所得税無し、市民税無しの人たちである。税収が限られ、そのうちに「夕張市」と同じ破綻行政区となると言われてきたが、前の市長は瀬戸が島産業地区、今の市長も箱もの行政で自分の仕事をアッピールする(前の市長の参与をしていた)大馬鹿者で、無い城の「浜田城資料館」を作った上、今回市長改選でまたこいつが「市の資料館」(予算7億2千万)を作ると選挙で公約して再選された。対立候補と600票差であったというが、市民の半分は行政の現状を考えない者ばかりである。どちらも資料館の資料がなく、学芸員もおらず天下りの市の教育委員会の役人やもと中学校の先生とかで固めた。
浜田城という城は幕末の長州征伐の時、逆に長州の大村益次郎によって責められ、松平の殿様は城や藩庁にに火をかけて、親戚の岡山の美作にかくまってもらった具合。そのころまた浜田地震というのがあって町民2500人から死者を出していた。この時の地震のせいか、城の石垣は大破し、明治以降に適当に素人修理されていたため、全国の城の実態調査をしていた者が激怒して放置したという話も聞いた。その上城の敷地内には民間の会社の建物が、どういう訳かある。何故かしら「文化の香る町」というキャッチフレーズを言うが、昭和初期の最も木造建築が最高の技術で建てられた旅館とか潰して鉄筋コンクリートの建物に置き換えてしまう町である。「文化の香り」などありはしないから、無い物ねだりで「資料館」を建てるコンプレックスそのもので充満している。
一方で福祉事業は予算を充当せず、介護保険(実際は保険ではない。厚生省の謀略である)税は日本一高い基準で徴収される。私も要介護3になって気が付いたことは、介護も週に3回ヘルパーさんが毎回1時間ほど来て、洗濯と買い物をしてくれるだけであったのには、何という税の使われ方かと立腹。要介護3は寝たきりで自分の排せつなどの日常が出来ない状態であるにもかかわらずそれ以上何もしてもらえなかった1か月半であった。
ガンのような大病をすれば広島に行くしかない。ここはやぶ医者ばかりで、医療技術は保証されない。
何となくここまで書くと分ってもらえるだろうか?・・・こんな町で死にたくない・・・と。
東京にいても同じだったろう、家の固定資産税が高く、年金の3分の1が持って行かれ、貯えも大してなく、どんなに様々なものが手に入る、サービスが受けられる恩恵があっても、未来が見えなかった。「知に働けば角が立ち、情に竿させば流される。とかくこの世は住みにくい。何処に行っても同じだと思ったとき、ふと詩がある・・・」と漱石の草枕の一節は結局「詩の中でしか息が出来ない」という意味だ。
私は「絵の中でしか息が出来ない」とかつて書いた。しかし絵を描くことが、自由に出来るほど実力があるということではなく、毎度切磋琢磨しないと一枚も完成しない。完成した作品を順次並べてみて自分の人生が見える。
ああ、どこか良い所はないのか??!!
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