河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

事の始まり

2024-11-09 22:45:20 | 絵画

最近は家の建築トラブルとか猫の話とかが多いと「苦情」がきた。仕方がないと言えばそうだが・・・。実は最近全く絵を描いていない。だから「・・・の絵画とは何であったか?」なんて話が出来ないが、構想だけは大まかにある・・・・。

ここ浜田に来てから描いた絵は、カラフルでフランドル技法で描こうなんて思いが殆ど成功せず落ち込んできた。それ以外に浜田に来たら大鯛を釣って記録を更新するという願いも実現せず、いつの間にか日本海の潮目は悪く、上物(青魚の様に回遊する魚)は対馬暖流は浜田の海岸から遠く離れて、せいぜい底物(大きく移動せず海底に居ついている魚)の狙っていたら、それさえも釣れなくなるほど海水温が上がったり下がったりしていた。そのため釣りもしなくなって、道具はさび付いた。

絵の道具もさび付いてきたようだ。しばらくブリュッセル時代に描いた人体デッサンの保存が気になって、15枚ほど自分で額装した。額縁は西美時代に版画素描係が新しく額装を替えると言って、前の楢材で出来た高級な額を捨てるというから、ほとんどをもらっておいた。西美でのお土産はこれが一番だった。額装すると馬子にも衣裳だ。ずいぶんよく見える。もし嘉川の家に引っ越せればギャラリーに二段掛けにでもしようかと思う。二段掛けは美術館ではありえない作法だ。

「継続は力なり」という言葉があるが、私の様に努力でしか才能を維持できない者に与える言葉だろう。デッサンも描き続けないと力は落ちる。その力は「感覚的な捉え方」を意味しているからだ。

この捉え方が失われかけていた。カラフルな絵を描こうと目的を誤った時から、多くを犠牲にして「自分の感性」を捻じ曲げて、自然に出てくる形を描く力を失い、見た目をよくすることが目的になっていた。それより自分の頭の中にある「絵画世界」をこの世に生み出せるようにするには、「自然とそう変化した」と言えるように「継続」が大切だった。それはちょっと前にもブログに書いたが、「描くこと」は頭でなく「筆が行く先を決めるように」手が動くことが望ましく「綺麗、美しい」は二の次とすべきだ。

私が気が付いた自分の「世界」は美しい世界」ではなく「グロテスク(日本語的には気持ちが悪いという意味)」であり、それを「無いものを在るが如きに」到達することが目標だったはず。

さあ、民事裁判の公判が11月23日に迫るが、「必ず勝つ」つもりで、時間を取り戻そうと思う。そして原点に戻る。

補筆:

昨年のこの頃のブログに「さあ、引っ越しの準備だ」というのがある。建築計画の契約を結んで、まず土地改良が動き出しているはずであった。しかし表土の田んぼの黒土は指示通り隣接する農地に移されずに盗まれた。そして黒土があった部分にじ「砂利」を入れるように指示されていたのにも拘らず、どこかから「古い廃土」が持ち込まれて。それを隠すために「真砂土」が被されていた。

そして今、その犯人たちは弁護士を雇って、私の訴えに反論している。今回の「事の始まり」は私が浜田の建築工事斡旋業を信じたためだ。この一年は失われた。

 


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