人は何かを始める前に「決意」する。さらにその前には「選択」を行っている。だから選択は決定なのだ。しかし絵を描くことを選択しただろうか?それは「物に対する意識」が形成される子供の頃に始まっているから、決意も選択もない。気が付いたら絵を描いていた。クレヨンを買ってくれた親・・・・子供は平らなところから、壁、床まで絵を描いて行く。だから親は「紙」を与えて、そこに描くように指示する。そこで子供は優しい親に感謝して「丸を描いて、チョンの線を描く」のを繰り返し、「これは何?」と問えば、一番大きい丸を指さして「パパ」と言い、つぎは「ママ」と言い、一番小さな丸を自分だと言う。それを見て私は感心した。子供にとって絵のモチーフは親だった。他にいきなり風景や静物画は無い。教えれば猫とか犬も描くが近くにその存在が必要だ。教えれば次第に各対象は増える。それどころかいつの間にかイメージの世界が出来あがる。「これは何を描いたの?」と尋ねれば、いろいろ説明してくれる。こんな時、黙っている子は居ない。「楽しい遊び」が始まっているのだ。
こうして子供の頭の中に「絵の世界」が形成されるが、これが大人になると失われる。なぜか大人になると別の遊びを求めるようになるからだろう。
私は子供の頃、絵は嫌いではなく、どちらかというと学科の「図工」の時間は、次は何をやらせてくれるのだろうかと心待ちにしていた。だから絵を描くことは其の一部でしかなかった。中学生になってクラブ活動はまず先にブラシバンドを選んだ。とにかくトランペットが吹きたかったが、数が無く一番多いクラリネットをやらされて・・・・これが一丁前の「音」が出るには相当な試練があることに失望した。で、難しいからと言ったら「メゾホルン」ならあるということで、これを始めたら、取り合えず「音(?)」が出ればと、いきなり楽譜を渡されて、演奏が始まった。しかし楽譜にはドとミとソシカナク、ミソミソ間をおいてまたミソミソだったのにガッカリ!!ホルンに主旋律を吹く場面は無いそうで・・・。やめた。
次に行ったのは剣道部!!なぜかと言われるとこまるが「チャンバラ」ぐらいに思っていたに違いない。先輩が指導で竹刀で「持ち方が悪い」とか言って叩くし、終いには屋上の鉄扉の「大きな鍵」で頭をたたくので、怒って指導の担任教師の所に苦情を言いに行ったら「君たちのことをもって先輩は指導しているのだから、我慢しなさい」と言う。これでやめた。今時であれば「暴力教師のクラブ活動」として訴えられるところだ。で次は姉が「美術部」に属していて、じゃあ私もと「入りたい」と担任教師に言ったら、じゃあ「自画像を描いてくるように」ということで、「自画像」を画用紙に鉛筆で描いて、姉に渡したら「グロテスク(気持ち悪いの意味)」の返事でムカついた。たかが中学の美術教師で何様のつもりだ!!と憤慨して、写真部に行った。ここには変な事を言う担当教師は居なかったため三年の御終いまで続いた。しかしどういう訳か写真部は毎日部活動があるわけではなく、放課後は直!!家に帰り机に向かった。中学二年生から私は姉と同じ部屋だが勉強部屋をもらっていて、何やら「独立心」が湧いてきて帰宅後はプライベートタイムだった。姉はピアノをやっていて将来の進路は決まったようなものだが、私はのんびりと構えていて、実は帰宅後勉強すでもなく、美術部を拒否されたせいか、新聞広告の裏が白いのを集めて、そこに絵を描いていたのだ。人物画は難しいので描かず、自分で思いついた建物を描いていたのだ。それを知らない隣のおばさんは「いつも公男さんは帰宅したらすぐに机について勉強している」と勘違いしていた。その勘違いも勉強しなくても、中間テスト、期末テストは学年で15番以内に入っていたから、やる気はさらさらなかった。だが、ある日私が描き貯めたデッサン(?)と週刊誌から手に入れたアメリカ女性のセミヌードのページが母に見つかって、すべて没収廃棄された。要するに高校受験で「まじめにやれ」と監視されていたのだ。こうした障害を乗り越えて今がある。
日本の教育では「自己認識」は持たせないようにしている。「皆と同じ判断力」が重要で、自分は違う意見だとは言わせない。山口高校の教師は「高校生に人権などない」と平気に言っていた。だから日本人は「労働力」でしかなく大学も労働を提供するために行くので、「主体的に行動できる者」はほんの僅かに「社会と戦って自律する」のだ。私が自分の「エゴ」に気が付いて「唯我独尊」を得たのは25歳になってからだ。この頃自分の絵の世界が見えてきた。
山口高校は戦後の吉田の次の総理大臣になった岸信介や佐藤栄作が出た学校だ。ろくでもない学校だと言えるだろう。その反面教師が自分の中にある。
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