ART COMMUNICATION IN SHIMANE みるみるの会の活動報告

島根の美術教育関係者が集まって立ち上げた対話型鑑賞の普及に努める「みるみるの会」の活動情報をお知らせするブログです。

9月月例会レポートその②「仁王捉鬼図(におうそっきず)」(2017,9,9開催)

2017-10-08 21:46:09 | 対話型鑑賞

9月9日の月例会のレポートが、みるみるメンバーの上坂さんから届きました!

みるみるの会 9月例会 2017.9.9
会場 浜田市世界こども美術館 3階 多目的ホール 14時~(35分間)  
鑑賞作品 「仁王捉鬼図(におうそっきず)」(複製画・実物の3分の2の縮小版でおよそ縦78cm×幅40cm) 狩野 芳崖(明治19年/1886年)
会場 参加者 会員3名  来場者3名  ナビゲーター 上坂 美礼

・当日の鑑賞会の様子
 スライドでの鑑賞も楽しいものになりそうだが、実物に近い複製を見ることで作品への親しみが増すと考え、軸を持参した。細部の鑑賞ができるように虫眼鏡も準備した。
 鑑賞会の最初の話題は、絵の中心の紅い存在について「神のような仏像のような、何かを守る存在」と、仏像や仏画を見たことのある方からの発言からだった。
 そして、左手に捉えられた存在について、角が生えていることを根拠に「鬼」という意見が続いた。
 次に「描かれている場面には物語があると思う。それが分かれば、いろいろと話せるとは思うが。それを知らなくても面白い絵だと思う。」と作品への感想も述べられた。「紅い存在の眼力の強さが印象的だが、どこを見ているのだろう。」と鑑賞者からの問いも出た。後ろの方で逃げたり隠れたり、こちらを覗っている鬼の仲間が見えることから、場所は鬼の巣窟で、退治に来た場面ではないかという意見が出た。絵の右手前の玉は見ていなくて、紅い神様の視線の先は画面の外であり、鑑賞者の足元ではないかという話も出た。
 その後、背景の灯の周囲を照らす明るい色と手前の暗くて鈍い色の対比から、けがれていた世界が鬼を退治することで晴れていく様子を表しているという意見が出た。
 その後、床や柱、吊るされている灯の豪華さが、鬼の粗末な衣類とそぐわないため、鬼の住処には思えないという反対の意見も出た。色の対比について話題が出た後、鑑賞会に初めて参加された方も挙手し「真ん中の紅い神様は閻魔大王のような存在で、例えば手前の鈍い色彩からこちらが地獄のような世界で、奥の明るい世界が天国で、二つの世界に振り分けている。」と、色彩を根拠に描かれている状況を読み取り、発表された。色についての話題が続いたので、一般的な日本画の顔料とは異なる鮮やかな色が使われていることに焦点化しようと試み、「どんな色が使われているか、じっくり見てみましょう。」と提案した。すると、鑑賞者から、複製なので顔料の粒子は見えないという意見が挙がった。複製やスライドは顔料の色の粒が見えないから、色みから推察する他ないという意味と受けとった。後で作品が描かれた時代を尋ねるが、その時には、改めて鮮やかな色みへと話題がつながった。話題は、背景に描かれている空気のような魂のような線の動きや、手前と奥に共通する模様に移った。「画面上方に弧を描くものは、捕まえられて今にも消えゆく鬼の魂の動きではないか。」と、目に見えないものを表現しているという話も出た。
 そして「小さい絵にしては壮大なテーマがあるように思う。鬼も悪者とは限らない。むしろ、神々しい紅い存在の方が鬼にとっては悪の存在かも。」という意見が出て、後で改めて掘り下げてみたい話だった。
 その後、紅い存在の手にしているアイテムや背負っている光背のようなものから、仁王や明王のような仏像を連想するという話に戻った。他の鑑賞者にも、どこかで見たことはないか尋ねると多くの方が挙手された。「仁王を連想するが、何を表した絵だろうと疑問に思う。」と鑑賞者からの感想も得られた。ここで題名を紹介した。本意としてはキャラクターの特定が目的ではなく、「仁王」と明らかにすることで「何を表した絵か。」という問題に話題を移す試みであったが、言葉が足りなかったと思う。ナビ役として「描かれたのは、いつ頃と思いますか。」と質問を投げかけると「狩野芳崖の作品で、明治時代ですよね。」と成立年代の情報共有が図られた。明治の作品と聴いた他の鑑賞者からも、格子状の床の模様からも西洋の影響が伺えることや、作品の鮮やかな色彩に立ち返り、潜在的に西洋の顔料を感じていたこと述べる発言も出た。また、シャンデリアのような灯が電球やガス灯に似ていることを根拠に、西洋の影響を感じるという話も出た。その後、鑑賞者から「西洋の鮮やかな絵の具が使われているのではないか。」という話も出たので、その流れで「輸入した顔料を取り入れた」という情報提供を試みた。
 しかし、ここでも言葉は足りなかった。画家の新しい日本画への挑戦を紹介する絶好の機会であったと思う。他に、画面の随所にモヤモヤ、ユラユラといった擬態語で表したくなるような表現や、光背のようなものに風を感じられることに着目し、背景の表現から、目に見えないものの動きが感じられるという話が改めて出た。他に、左手前の岩は意味を付随するというより構図のために描かれたのではないかという話や、柱の描かれ方の不自然さに注目した話も出た。その後、鑑賞会の終わりに、当時の総理大臣(伊藤博文)がこの絵を見て、西洋画に劣らないと絶賛したという逸話を伝えた。情報を伝えることで鑑賞者が興味をもって調べたくなるアプローチを試みたいが、「伊藤公にも誉められたそうです。」というような伝え方では不十分に思う。「当時、西洋画に凌駕されつつあった日本画が、画壇での復興を試みた渾身の作だった」ということを鑑賞者がくみ取れるように、それに関わる鮮やかな色や西洋風のモチーフなどの意見をコネクトしていくとよかった。

・課題と反省
 歴史資料としての側面も作品の面白さの一つと考え、情報提供を織り交ぜつつ焦点化することをナビ役の目標にしたが、結果として、唐突で言葉足らずであった。ナビ役として猛省すべきは声の大きさや間の悪さなど、改善にむけて非常に努力を要する課題がある。それでも作品の魅力は大きく、鑑賞者から様々な発言が得られ、ナビ役の私も一人の鑑賞者として多くの示唆を得た。
 鑑賞会後の反省会では、鑑賞会の内容や展開に関する改善へのヒントをもらえた。鑑賞会で洞察に富んだ発言が多く出たなかで、ナビが時代背景などを肉づけして展開する余地が随所にあったはずで、そのことが不十分なため、準備不足の印象が強く残ったという指摘をもらえた。反省会でも話題になったが、私も、作品の魅力と時代背景は不可分であると考える。作品成立の時代背景を読み解く働きかけをするために、線や色彩や陰影などに着目し、画面に立ち返って語るべき要素は多く残っていた。伝統的な仏画と比較できる画像を準備し、シークエンス化することで、発見や気づきを提示できそうという提案もあった。
 閻魔大王が振り分ける話や、鬼が悪者とは限らないという話を思い出し、帰宅後、私にも仮説が生まれた。膠で描く伝統的な絵画技法が「日本画」という概念で新しく生まれ変わった明治時代に思いめぐらせ考えてみると、閻魔大王のように振り分ける「仁王」は「殖産興業で賑わう時代や、政治・制度」の象徴で、捉えられ、逃げ隠れている鬼たちは今にも淘汰されようとしている古来の風習や伝承を象徴しているのかもしれないと思い至った。参加された皆さんはその後、どのように感じ、考えられただろう。重陽の節句、豊かな時間をありがとうございました。


 次回のみるみるの会の月例鑑賞会は10月14日(土)14:00~浜田市世界こども美術館にて
秋のひと時、豊かな時間をみるみるの会メンバーと過ごしませんか?
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