正林寺(しょうりんじ)は浄土宗の寺で、小松谷正林寺と通称しています。
渋谷街道の中ほどを小松谷(東山区上馬町・下馬町・瓦役町辺)といい、
清盛の嫡男重盛は、この谷に屋敷を構えていたので小松殿とよばれました。
『京都府地誌』によると、正林寺は重盛の念仏堂(燈籠堂)址で、
後に九条兼実の別邸が営まれました。
兼実はこの地を深く帰依した法然に寄進し、法然は建永元年(1206)
東山吉水の庵室より移り、ここを小松谷御坊としたという。
その後、一時廃絶していましたが、僧恵空(えくう)が
享保年間(1716~36)に北野真盛町にあった正林寺を
小松谷御坊の跡地に移し再興したと伝えています。
再建にあたっては九条家の庇護をうけ、現在の本堂以下
山門・大師堂・鐘楼・庫裡などが整備されました。
大師堂に法然と兼実の木像を安置しています。 重盛の邸には、灯篭堂があったとされ、重盛が
「灯篭大臣」とよばれたことが『平家物語』に見えます。
また東大路通に面した馬町交差点付近、
妙法院の北にある積翠園(しゃくすいえん)は、
小松殿苑池の跡と推定されています。
渋谷(しぶたに)街道は渋谷越ともいい、東山を越えて
京と山科を結び、山科で東山道と合流する重要な街道でした。
また正林寺の東には、かつて若松池があり、
この池は清盛と深い縁のあった大納言藤原邦綱の山荘
若松亭(東山亭)の苑池と伝えられています。江戸時代中期まで
池の一部が残っていましたが、今は跡形もありません。
現在、正林寺の東側を清閑寺池田町と呼ぶのは、
若松池によるものと思われます。若松亭は治承4年(1180)11月26日、南都攻撃に出陣する
平重衡を総大将とする平家軍が集合した場所です。
神戸市の大山咋神社(藤原邦綱)
『平家物語・巻3・金渡し(こがねわたし)の事』によると、
平重盛は、来世の為に善根功徳を積んでおきたいが、我が国では
子孫が続いて先祖の後生を弔うことは難しい、そこで他国に
何か善根をして、後世を弔ってもらいたいと思い、
九州から正直者で有名であった妙典(みょうでん)という船頭を呼び、
砂金三千五百両を出して「五百両はそちにとらせよう。
三千両を宋に運び、千両は育王山の僧へ贈り、二千両は皇帝へ献上し、
重盛の後世を弔ってほしいと伝えよ」といいつけ、宋の仏教の聖地、
育王山(中国五山の1つ・阿育王山の略)との結縁を求めました。
皇帝への二千両は、育王山(現、浙江省寧波府にある)の
伽藍を維持するために田地に代え
皇帝から育王山へ寄進して貰うためのものです。
その返礼として、建久九年(1198)、阿弥陀経石が日本へ送られ、
宗像(むなかた)大社へ届きましたが、すでに重盛この世になく
平家一門も西海に沈んだあとだったので、
都へは運ばれず、宗像大社(福岡県)近くに置かれ、
のち寛文二年(1662)に宗像大社に安置されました。
正林寺の石碑は、宗像大社にある阿弥陀経石(重要文化財)を
江戸時代の正徳四年(1714)、有志の人々がこれを模刻し、
小松殿址にちなんで正林寺境内に建立したものです。
宗像大社の神宝館に展示されている
原碑とほとんど同じ形状・大きさです。
これと同じものが京都市百万遍に建つ
法然と源智(げんち)の寺、知恩寺の境内にあります。
これは源智が一の谷合戦で戦死した師盛(もろもり)の子で、
平重盛の孫にあたるという縁によるものと思われます。
正林寺の門前にたつ「小松谷御坊舊跡」の碑
境内は正林寺が経営している保育園の園庭となっています。
職員の方にお願いして拝観させていただきました。
本堂(阿弥陀堂)
境内墓地入口には、阿弥陀経石が建っています。
高さ約2m、青味を帯びた水成岩の石塔で、上部に笠石を置き、
表面に「弥陀四十八願中」の三願と定印の阿弥陀坐像が刻まれています。
基礎には反花(かえりばな)の蓮華を彫った石をすえ、
その下の台座には多くの勧進集や結縁衆の名前が刻まれています。
背面には「仏説阿弥陀経」と「無量寿仏説往生浄土呪」が彫られています。
浄教寺 平重盛(1)
重盛邸庭園の遺構 積翠園 平重盛(3)
平重盛熊野詣(熊野本宮大社) 平重盛の墓(小松寺1)
『アクセス』
「正林寺」京都市東山区渋谷通東大路東入3丁目上馬町
市バス「馬町」下車、 馬町交差点から東へ、渋谷越の坂を約25分上ります。
『参考資料』
梅原猛 「京都発見」(5)新潮社 竹村俊則・加登藤信「京の石造美術めぐり」京都新聞社
竹村俊則「昭和京都名所図会(1)(5)駿々堂出版 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
「京都市の地名」平凡社 「京都府の歴史散歩」(上)山川出版社