平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






白峯神宮は明治元年(1868)に明治天皇が父孝明天皇の遺志をつぎ
讃岐の白峰(香川県坂出市)より崇徳上皇の神霊を移し祀ったのがはじまりです。

崇徳上皇は皇位をめぐって弟の後白河天皇と争い、保元の乱で敗れ、
讃岐の配所で崩御し、遺骸は白峰陵に葬られました。
以後、相次ぐ天変地異や源平の争乱は、上皇の祟りと信じられて恐れられました。

幕末、孝明天皇は都に帰ることなく讃岐で亡くなった崇徳上皇の霊を
京都に迎えようとしましたが、果たせず
その遺志を継いだ
明治天皇が明治改元にあわせて、白峯神宮を造営しました。
勅使は讃岐の白峰陵の前で宣命を読みあげ、
上皇の木像とともに神霊を迎えて京都に帰りました。
次いで明治6年、淡路国天王森山陵(兵庫県三原郡南淡町)の
淳仁天皇の霊も合祀されました。
淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱に巻き込まれ、
孝謙天皇に対して謀反を計ったという罪で淡路島に流され、
翌年の神護元年(765)配所で崩御しました。

社地はもと蹴鞠、和歌の家元・飛鳥井家の別邸でしたが、
飛鳥井氏が寄付し、飛鳥井氏の鎮守神、毬大明神は摂社に祀られました。

これに因んで毎年七月七日には、毬精大明神祭が行われ蹴鞠が奉納されます。



拝殿

崇徳天皇のファンの寄付によって建てられたという石碑。
  秋季例大祭 崇徳天皇祭は九月二十一日に行われ、
十一月十五日には、弓の奉射神事・伴緒社祭もあります。


本殿東の末社、伴緒(とものお)社は保元の乱の際、
崇徳天皇のもとに馳せ参じた源為義・為朝父子の霊を祀っています。

源為義は保元の乱では、子の為朝とともに崇徳院方につきましたが敗れ、
後白河天皇方についた嫡子義朝を頼って降伏します。
しかし、義朝の戦功に代えての助命嘆願もかなわず処刑されました。


源為朝は義朝(頼朝の父)の弟で、武勇に優れ弓をひいては当代随一といわれ、

13歳の時、鎮西(九州)に渡って九州に勢力を張り、鎮西八郎とよばれました。
たまたま上洛していた時に保元の乱が起こり、父とともに崇徳新院方について戦い
大いに奮戦しますが敗れて行方をくらまします。まもなく捕えられ肩と手の関節を抜かれて
伊豆大島に流罪となります。ここで島の代官の婿となって大島はじめ近くの島を
領有して騒ぎを起こし、後白河院の命を受けた討伐軍に攻められ自刃しました。
江戸時代滝沢馬琴によって、壮大なスケールの為朝一代記
『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』が著され人気を博しました。


オガタマノ木(京都市指定天然記念物)は樹齢が八百年と考えられることから、
飛鳥井家の邸宅であった時代に植えられたものと見られています。
5月初めに珍しい花を咲かせ、その実の形から
巫女が神楽などで使う鈴をかたどったといわれ、
榊が使われる前は、オガタマノ木が神前に供えられたとされています。


潜滝社



鞠庭

摂社毬大明神社は、サッカーや球技の神様として信仰され、
球技関係者が参拝に訪れてはボールを奉納しています。

4月中旬、薄黄緑色の花を咲かせる「黄桜」が咲き誇っていました。
崇徳院ゆかりの地(白峯御陵)  
崇徳院ゆかりの地(白峯寺)  
 『アクセス』
「白峯神宮」 京都市上京区今出川通り堀川東入北側 市バス「堀川今出川」下車すぐ
『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館
石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂 
「京都市の地名」平凡社

 

 


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