平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



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二条天皇陵は平野神社の西方約300㍍、周囲を民家に囲まれた静かな場所にあります。
永万元年(1165)7月、二条天皇は23歳で二条院で崩御、
香隆寺付近の野で火葬し、遺骨は香隆寺の三昧堂に納められました。
香隆寺は弘法大師の弟子教日律師が開いた真言宗の寺といわれ、
のち寛空僧正が再興し宇多上皇の勅願所となりましたが、
中世になると寺は荒廃し、上品蓮台寺に合併されました。


参道には松の木が生い茂っています


二条天皇香隆寺(こうりゅうじ)陵



二条天皇(1143~65)は後白河天皇の第一皇子で、
名は守仁(もりひと)、高倉天皇の異母兄にあたります。

母が守仁を生むとすぐ亡くなったため、守仁は鳥羽天皇の皇后美福門院に養育されます。
幼い頃から聡明で天皇の器であるとの評判が高く、近衛天皇(美福門院の皇子)が
崩御した後、二条天皇が皇位に就くはずでしたが、
藤原信西が「父をさしおいて子が 先に天皇になるのは不当である」と訴え、
二条天皇を次に即位させる含みで後白河天皇に皇位の道が開けました。

後白河天皇は在位二年程で、16歳の二条天皇に皇位を譲り院政を始めますが、

二条天皇は筋を通す性格で、いい加減で我儘な父の院政を認めず
政事は関白基実と相談して決めたので、後白河院と何かと対立することが多く、
互いに相手側の側近に理由をつけては、追放したり流罪にします。
『源平盛衰記』によると、
「天皇は優秀で政事には叶うが孝道にはそむく」といわれたといいます。

この頃、近衛天皇のお后だった多子は、天皇に先立たれた後「近衛河原の御所」に
ひっそりと住んでいました。多子は美貌の聞こえが高く、この噂を耳にした
二条天皇は多子を
入内させるよう彼女の実家の右大臣家に強引に命じます。

実家は徳大寺家と呼ばれる名家で、多子は右大臣藤原公能の娘ですが
さらに家柄のいい藤原頼長の養女として近衛天皇に入内したのでした。

先帝の后を入内させるなどというのは前例がなく、
父の後白河院も「あるべきことでない」と諭し、
臣下も口をそろえて反対しますが、
「天子には父母はいない。だから父のいうことは聞かなくてもいいのだ。
自分は前世に功徳をつんだお陰で、今天皇の位についたのだ。
このくらいのことを何で自分の思いのままにできないことがあろうか。」と
いって聞き入れません。
多子は近衛天皇が崩御された際、
出家しなかったことを悔やみながらも、
仕方なく入内して「二代の后」とよばれました。


多子が後宮に入って五年後の春、にわかに二条天皇は病に罹り、
2歳の皇子(六条天皇)に皇位を譲って23歳の若さで崩御しました。
その後、
六条天皇もわずか5歳で譲位させられ、13歳で亡くなります。

次に即位したのが後白河院と建春門院(平滋子)の皇子高倉天皇です。
高倉天皇は後白河院の第七皇子ですから、本来なら皇位には
就けそうにはありませんが、後白河院の寵愛を一身に受けていた
滋子の願いを院が聞き入れ皇位に就けてしまいます。
『アクセス』
「香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)二条天皇陵」
京都市北区平野八丁柳町市バス「平野神社前」下車徒歩10分
『参考資料』
「平家物語」角川ソフィア文庫   福田豊彦 関幸彦「源平合戦事典」吉川弘文館
 石田孝喜 (続)「京都史跡事典」
 新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂
 


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