平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




衣笠城は三浦為通(ためみち)が源頼義に従った前九年合戦の功により、
三浦の地を領して三浦氏と称し、康平6年(1063)に築いたとされる山城です。
その子為継、孫義継は、ともに頼義・八幡太郎義家に臣従し、
奥州へ出陣し勇名を馳せました。

衣笠城址バス停から横断歩道を渡り、道標に従って左折し、
太田和街道入口手前の横断歩道を渡り、山科台方面に少し進み、
案内板を右折すると衣笠城址への上り口、
城の大手口(正面)にでます。
ここから坂を上ります。

バス停から横断歩道を渡ると衣笠城趾の道しるべがあります

石垣は割と遠くからでも見えるので、これを目標にして進みます

この坂道は、衣笠合戦の時に武蔵の武士団が押し寄せた大手道です。

大手口の一角に衣笠城追手口遺址」と刻まれた碑が建っています。
上る時には、この碑を見逃しましたが、本丸跡で出会った全国各地の
城址を訪ね歩いているという方に教えていただき帰りに撮影しました。

大手道傍のお地蔵さん

小坪合戦
治承4年(1180)8月、源頼朝が伊豆で挙兵し、石橋山に陣を布くと、
源氏にゆかりの深い三浦大介義明は三浦義澄ら300余騎を
加勢に向わせましたが、大雨による増水のため
酒匂
(さかわ)川を渡れず頼朝軍と合流できませんでした。
その頃、頼朝は大庭景親(かげちか)の軍勢に敗れ、真鶴から海路
房総半島に向かっていました。ところが三浦軍は
「頼朝軍敗北、前武衛頼朝殿の存否も確かならず。」との悲報を受け、
やむなく本拠地に引き上げました。その途中、
鎌倉由比が浜で平家方の畠山重忠一族と遭遇しました。

三浦軍が目の前を通り過ぎるのを黙って見ているわけにはいかない。
平家に知られたら困ったことになると、重忠は三浦軍の背後から攻めました。
重忠は父重能が京都大番中であったので、この時父に代わって弱冠17歳で
一族を率いて、遅れて石橋山に向かう途中でした。
京都大番役は、諸国の武士が三年交代で京都に滞在し、宮廷、京都警固の役に
あたったものをいいいますが、危急の時には人質にもなります。

畠山重忠は「今、我が父重能、京都に当参して平氏の六波羅邸に在り。されば、
源氏に方人(かとうど)する貴軍を眼前にして、なすことなくんば、平家の聞こえ、
父が安否、ともにもって憚りあり。なれば、そのためになせし一反の攻め、
すでに後聞に充分なり。しかるを、まだ戦わんとするや否や、
子細のほど承るべし。」と和睦を申し入れました。
三浦軍の和田義盛は「畠山殿は三浦大介義明には娘婿の子なり。
某はまた大介の孫なり。母方、父方の別はあれども、
大介の孫たるにおいては別の儀なし。
もしこのまま敵対に及ばゝ、ともにもって後の悔いに及ぶべし」と
和睦交渉はまとまり双方通過しようとしました。

畠山重忠は三浦義明の娘が重能に嫁いで生んだ子です。
和田義盛は、三浦義明の長男義宗の子、どちらも大介義明の孫です。
義盛は義明の長男義宗の嫡子ですが、
義宗が安房国長狭氏との合戦の際、討死にしたため叔父義澄が嫡流となり、
義盛は衣笠城の東南、現在の三浦市初声(はつせ)和田を本拠地としていました。

しかしこの時、思いがけない手違いが起こりました。
和田義盛から危急の知らせをうけた義盛の弟和田義茂が和睦を知らずに
杉本城(現・鎌倉市杉本寺)から畠山勢に突っ込みました。
「三浦が者共にたばかりにけり。こは心安からず。」と畠山重忠は激怒して
合戦となりこの時、三浦軍は4名が犠牲となり、畠山勢は50名余が討死しました。
畠山重忠は一旦退き、三浦軍はそのまま衣笠城へ戻りましたが、
重忠はじめ平家方が衣笠城へ押し寄せてくるのは時間の問題でした。

 衣笠城址(2) 衣笠合戦 
小坪合戦の地(由比ヶ浜)  
『アクセス』
「衣笠城址」神奈川県横須賀市衣笠町756 
JR横須賀よりバス三崎行または長井行「衣笠城址」下車
大手口まで徒歩約10分
『参考資料』
奥富敬之・奥富雅子「鎌倉古戦場を歩く」新人物往来社 「三浦一族の史跡道」横須賀市
新定「源平盛衰記」(三)新人物往来社 
佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房 野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成 「平家物語」(中)新潮社
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 新訂「官職要解」講談社学術文庫
 「神奈川県の歴史散歩」(上)山川出版社 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 



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