平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




JR吉備津駅を降り立つと前方に吉備の中山が姿を現し、
その山裾に向って東へ少し歩くとやがて長床の堂舎が見えてきます。
明治中頃、天台系修験の寺として開かれた宗教法人福田海(ふくでんかい)です。
この裏山に藤原成親の墓(県史跡)があります。
境内に入り、細谷川に沿って山道を上ると、成親が幽閉された山寺という
高麗寺(こうらいじ)の山門跡に至ります。

そこからさらに上った頂に石垣が築かれ、中央に玉垣に囲まれた
藤原成親の墓といわれる五輪塔の一部がひっそりと据えられ、
傍らには明治末、福田海によって建立された九重の供養塔があります。
 


岡山県・広島県東部は、古く吉備とよばれ、吉備津彦神社・
吉備津神社の中間辺、備前・備中の境にある丘陵を吉備の中山といい、
古くから歌枕の地として知られていました。
有木の別所は吉備の中山の山塊の一つ有木山にありました。


←吉備津神社  吉備津彦神社→

福田海本部 長床の堂舎






藤原成親遺跡の碑









「史跡 高麗寺仁王門跡」の碑



成親遺跡まで徒歩10分













治承元年(1177)、東山鹿ヶ谷の山荘において、平家討伐を企てた罪で
後白河法皇の近臣が配流処刑されるという事件が起こりました。
歴史上有名な鹿ケ谷事件です。この事件の首謀者藤原成親は、
平治の乱でも平清盛に敵対して敗れ、妹婿平重盛に助けられています。

この度も重盛の嘆願によって、死刑を免れ備前児島に流罪となり、
次いで備前・備中の境にある「有木の別所」という山寺に移されました。
それから僅か二ヶ月後、結局そこで殺害されました。
『平家物語』によると、
はじめ酒に毒を入れて殺そうとしましたが
飲まないので、崖の下に鋭い刃物を埋め立て、上から突き落としたという。
清盛の深い憎しみが伝わってくる残忍な殺害方法です。

清盛は国家の刑罰ではなく、自分の一存で現職の正二位権大納言である
藤原成親を正式の解官の手続きを行なわないまま、
配流し殺害するという信じがたい事態を引き起こしました。

鹿ケ谷事件で成親を折檻したのは、吉備豪族の難波経遠・妹尾兼康です。
成親を預かり自分の領内で惨殺したのは難波経遠とされています。

なお、成親の殺害方法は『愚管抄』(巻5)には「7日ばかり物を食わせで後、
さうなきよき酒を飲ませなどしてやがて死亡してけり」とあり、
『源平闘諍録(げんぺいとうじょうろく)』には「難波次郎之を承り、
二三日食事を断ち、酒に毒を入れて殺し奉るとぞ聞こえし。
又谷底に菱を殖えて、高きところより突き懸けて
失い奉るとも云ひ伝へり。又船に乗せ奉り、燠(おき)に漕ぎ出でて
ふしづけに為したりとも云へり。」とあります。

京の北山雲林院辺に隠れ棲んでいた成親の妻は、夫の死を伝え聞くと、
出家して菩提樹院(京・左京区吉田神楽岡町にあった寺)に籠り
成親の後世を弔いました。
「彼女は山城守敦方の娘で、ならぶものもない美人。
もとは後白河院の愛人で
あったのを、院が成親に与えた。」と
『平家物語』は記しています。

成親の息子丹波少将成経(なりつね)は、
謀議に加わっていませんでしたが、
当時の掟で父に連座して瀬
尾(せのお)兼康に護送され、
その本拠地、備中国妹尾に流罪となりました。
父のいる有木の別所との距離は、僅か50町 (1町は109m)足らずでしたが、
会わせてもらえず、
やがて成経は俊寛・平康頼とともに
鬼界が島へ流されていきました。
石清水八幡宮高良神社( 藤原成親謀反)  
  
瀬尾(妹尾)太郎兼康の墓  
 『アクセス』
「藤原成親遺跡」岡山市吉備津有木谷 JR吉備津駅下車 徒歩約35分。
『参考資料』
「岡山県の地名」平凡社 薬師寺慎一「考えながら歩く吉備路」(上)吉備人出版
「岡山県の歴史散歩」山川出版社 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書 元木泰雄「平清盛」角川ソフィア文庫
高橋昌明「「平清盛 福原の夢」講談社



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