平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



佐々木高綱は近江国(現、滋賀県)佐々木一族のひとりです。
治承四年(1180)頼朝が平家打倒の挙兵をした時、三人の兄たちとともに
参加し忠誠を尽しました。一方の梶原景季(かげすえ)は石橋山合戦の際、
平家軍として参加しながら、逃走中の頼朝の危機を救い、
その後、頼朝の腹心となった梶原景時の嫡男です。

寿永三年(1184)正月十三日ごろ、頼朝の命を受けた木曽義仲追討軍が
六万余騎で京へ攻め寄せます。義仲はこれを東の瀬田川、南の宇治川で
防ぎとめようと、瀬田大橋には乳母子の今井四郎兼平八百余騎、宇治橋には
五百余騎、一口(いもあらい・京都府久御山町)には、叔父志田義広三百余騎を
向かわせます。この時、宇治川を名馬で渡河した佐々木四郎高綱と
梶原源太景季の先陣争いは名場面として知られています。

その頃、頼朝は生食(いけずき)、磨墨(するすみ)という二頭の名馬を
秘蔵していました。鎌倉を出陣する時、梶原景季は頼朝の所へ参上して
「生食(池月)を賜って宇治川を渡らせて頂きたい。」としきりにねだりますが、
頼朝はいざという場合に自分が乗る馬だからと断り、
「生食に劣らぬ名馬だぞ。」と磨墨を与えます。

次いで佐々木高綱が暇乞いに参上すると、頼朝は「そなたの父秀義は
保元・平治の乱に父義朝殿に従いよく奉公してくれた。生食をそなたに与えよう。
この馬を所望する者も沢山いたが誰にもやらなかった馬であるぞ。
その旨承知せよ。」と生食を引き出物にしました。
これに感激した佐々木高綱は「きっとこの馬で宇治川の先陣を遂げます。
そうでない時は自害する覚悟です。」と誓って出陣しました。
佐々木四郎が賜った馬は黒栗毛の大馬で、
人にも馬にも見境なく噛みつくことから生食と名付けられたという。

先陣を遂げるとは、味方の先頭に立って敵陣へ突き進むことをいいます。
武士にとって戦場での功名が出世を約束する時代、恩賞の対象となるのは
先陣を勤めるか、名ある敵将の首を取って手柄を立てることでした。
主人の側からいうと家臣の功名心をあおりたて、
互いに競わせるように仕向けるのが勝利のための策です。

こうしてそれぞれの軍勢が思い思いに出発し西へと進みます。
景季は、駿河国まで来ると丘に上り街道を進みくる軍勢の馬を眺めながら、
我が磨墨に勝る馬はないと得意になっていました。
そこに生食とおぼしい馬が現れます。景季が近寄り「馬の主は誰だ。」と問うと
「佐々木四郎高綱殿の馬です。」と聞き、磨墨を賜り喜んでいた景季は、
「高綱と刺し違えて二人の武将を失わせ、鎌倉殿に損をさせてやろう」と
待ち構えて高綱を問いただすと、「それなのですよ。梶原殿のようなお方でも
お許しがなかった生食を自分がもらえるはずがありません。
お咎めを覚悟で実は出発の前夜盗み出したのです。」とかわすと、
景季はこれにすっかり騙され「そんなことなら景季も盗むのであった。」と
大笑いしながら去って行きました。
続きは次の記事でご覧ください。宇治川の先陣争い(宇治川先陣之碑)  
沙沙貴神社(近江源氏佐々木氏)  
『参考資料』
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫

 



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