平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




源平藤戸合戦で主役を演じた佐々木三郎盛綱は、
近江の宇多源氏の後裔・佐々木秀義の三男として生まれました。
母は源為義(頼朝の祖父)の娘で、太郎定綱・次郎経高の弟、四郎高綱の兄にあたります。
父の秀義は平治の乱では、源義朝(頼朝の父)に属して戦い、敗戦後、
本拠地(近江国佐々木荘)を追われ、子らとともに奥州へ下る途中、
相模国渋谷重国に呼びとめられ重国のもとに身を寄せました。

奥州に向かったのは、秀義の伯母の夫である藤原秀衡がいたからです。

盛綱も相模国に留まることになり、伊豆にいる流人頼朝に仕え、
治承4年(1180)、頼朝が挙兵した時には、兄弟とともに相模から頼朝のもとに駆けつけました。
まず伊豆国の代官山木兼隆の後見で勇士とされた堤信遠邸を定綱・経高・高綱が
襲撃して信遠を討ち取り、次いで盛綱と加藤景廉が山木舘を攻めて兼隆の首を取り、
頼朝は緒戦を勝利で飾りました。

「馬の腹帯が伸びている。」と梶原源太景季を巧みに騙して、宇治川先陣を遂げた高綱、
浅瀬を教えた漁夫を刺殺した盛綱、佐々木流先陣譚ともいえます。
戦乱が続く中、戦場では冷酷非情な騙し討や謀略が広く行われ、
『平家物語』は、これについてほとんど批判をしていません。しかし佐々木兄弟は
各地で戦功を挙げともに武名が高く、何かと話題の多い一家だけに
倫理観の欠如が取りざたされ、昔から批判や弁護の論議が繰り返されてきました。

藤戸寺の眼下を流れる藤戸川(倉敷川)の辺は、藤戸海峡の最深部でした。
太古から児島は一つの島でしたが、次第に藤戸付近で土砂の堆積が進んで江戸時代初期に
本土と陸続きになると、児島湾の干拓事業が本格的に始まり干拓地が拡大していきました。

藤戸川に架かる朱塗りの盛綱橋の上には、海を渡る盛綱の騎馬像があります。

佐々木盛綱像と経ヶ島の森

盛綱橋北詰には、藤戸周辺案内板がたっています。



 盛綱橋の歴史 
今見る藤戸・天城の山丘はかつては藤戸海峡に浮かぶ島であった。
その後、次第に開発されかつての海の姿は消え、僅かに南北に流れる
倉敷川が藤戸海峡のなごりをとどめているのみである。

この橋の上流一帯が『平家物語』」や謡曲『藤戸』で知られている
源氏の武将「佐々木盛綱」が渡海先陣で功名を挙げた源平藤戸合戦の古戦場跡で
多くの伝説・史跡を今に伝えている。江戸時代、寛永十六年(1639)岡山藩家老
「池田由成」が天城に居館を築き、士屋敷を中心に町づくりを行い、
「かち渡り」や「渡し」であった藤戸・天城の間に、
正保四年(1647)に藤戸大橋・小橋を架け交通の便をはかった。
以後、岡山城下栄町を起点として妹尾・早島・林・児島・下津井に至る
「四国街道」の往来を容易にし、江戸時代後半には、金毘羅参詣の信仰の高まりと共に
参詣の人々がこの橋を往来した。また、倉敷川にかかる藤戸大橋の周辺は、
川湊として近隣農村部の物資の集散地となり、おおいににぎわった。
交通機関の発達と道路網の整備に伴い、藤戸大橋の架け替えが必要となり、
大正十四年架橋工事を始め、同十五年四月にトラス橋が完成した。
多くの橋名の案が出されたが、「佐々木盛綱」藤戸渡海先陣のいわれにちなみ、
時の県知事によって、「盛綱橋」と命名された。
多くの人々になじみ、親しまれ、風雪に耐えた「盛綱橋」も老朽化し、
昭和の時代が終わると共にその役割を終えたのである。

平成元年総工費1億円を懸け二代目「盛綱橋」の誕生を見たのである。
歴史の流れを伝えんとして、橋上に八百年の昔、馬上姿で藤戸海峡を波きって渡る
「佐々木信綱」の銅像を造り架橋記念とした。平成四年七月(現地説明板) 

盛綱橋北詰から東へ50mほど行くと、天城小学校の校庭に隣接して小さな丘があります。
ここはかつて藤戸寺が管理していた海に浮かぶ島でした。
盛綱は漁夫の供養のため藤戸寺で法華経の写経会を行い、
寺前の小島に供養石塔を建立したと伝えています。

丘の頂上には、盛綱が経筒を埋めた経塚と漁夫の供養塔があります。



藤戸寺鎮守の弁財天社

源平藤戸合戦八百年忌と刻まれています。

経塚と小さい方が漁夫の供養塔

  経ケ島
    経ケ島  秋の下闇  深かりし    高濱年尾 
寿永三年(西暦一一八四年)冬十二月、
源平両軍はこの藤戸海峡をはさみ布陣した。

  源氏の将佐々木三郎盛綱は漁夫に浅瀬を教えられ、馬を躍らせて一番に海を渡り、
味方を
勝利に導いた。この時盛綱は浅瀬の秘密をまもるためこの漁夫を亡きものにしたという。

  次の年、児島郡の領主となった盛綱は、哀れな漁夫の追福のため、
大供養を藤戸寺で行い
  写経をこの島に埋めたので経ケ島と呼ばれるようになった。
  頂上に石灰岩で造られた二基の宝篋印塔があるが、
小さい方が漁夫の供養塔と伝えられて
いる。麓の弁財天社は藤戸寺の鎮守で、
寛永九年( 西暦一六三二年)、岡山藩家老池田氏が天城に陣
屋を設けた際、
祀られたものである。(現地説明碑)  
俳人高浜年尾は高浜虚子の息子です。

藤戸合戦の史跡には、漁夫の母が盛綱を怨み佐々木の「ササ」と聞くだけでも
憎らしいと島の笹をむしりとり、笹が生えなくなった島という笹無山、
山陽ハイツの北に位置する法輪寺(倉敷市羽島)には、源範頼の本陣跡の石碑、
このほか鞭木跡、御崎神社、蘇良井戸などもありますが、
時間がなく周れませんでした。
藤戸合戦古戦場1(乗出岩・山陽ハイツ・先陣庵) 
 藤戸合戦古戦場2(藤戸寺・浮須岩跡)  
『アクセス』
「盛綱橋」JR倉敷駅から下電バス20分「藤戸寺下」下車
(バス1時間に2、3本)
『参考資料』

現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館、2007年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
佐伯真一「戦場の精神史・武士道という幻影」NHKブックス、2004年 「岡山県風土記」旺文社、1996年 
「岡山県の地名」平凡社

 



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