鶴岡八幡宮の東側、清泉小学校の角に大蔵幕府跡の石碑が建っています。
この小学校辺が、治承4年(1180)頼朝が鎌倉に入って建てた邸跡で、
最初の幕府がおかれた大蔵(倉)幕府の跡です。
大蔵御所の東西南北には門が設けられ、有力御家人の屋敷畠山重忠邸、八田知家邸が南御門に、
比企能員(よしかず)その子息宗員邸が東御門に、
三浦邸が西御門というように、御所の各門を守るかたちで建っていました。
現在、西御門(にしみかど)、東御門(ひがしみかど)という地名も残り、
由緒を記した碑がそれぞれの所にあります。
御所の周辺には御家人たちの屋敷が密集し、
門前には武士の生活を支える商工業者の家や住宅が建ち始め、
中世鎌倉は御所の門前都市として発展していきました。
西行は重源に頼まれて東大寺の再建費用の砂金を勧進するため、
奥州に赴く途中、鶴岡八幡宮に参詣をしますが、
頼朝に見つけられ御所に招かれます。夜通し頼朝は
歌道や弓馬のことについて質問し、別れ際に銀製の猫を贈りますが、
西行はこの猫を門前で遊ぶ子供に与えたというエピソードが
『吾妻鏡』に見え、長閑な門前の風景がうかがえます。
(文治2年(1186)8月16日条)
西御門を守護する位置にあった三浦邸は、
横浜国立大学附属鎌倉小中学校(鎌倉市雪ノ下3丁目5)
正門敷地の北寄りと考えられています。
横浜国立大学附属小中敷地の垣根の前に西御門の石碑がたっています。
この背後一帯の地は、三浦義澄以下代々の三浦氏一族の邸跡に比定されています。
(大意)西御門は法華堂の西方の地をいう。
大蔵幕府の西門に面していることにより此の名称がつけられました。
此の地には、報恩寺・保寿院・高松寺・来迎寺等がありましたが、
今は高松寺と来迎寺の二寺だけが存在します。
大正十五年三月 建 鎌倉町青年団
「西御門跡の石碑」鎌倉市雪ノ下3丁目5付近
「東御門跡の碑」鎌倉市西御門2丁目8付近
『吾妻鏡』文治元年(1185)9月1日条によると、廷尉(ていい)大江公朝が
勅使として御所に参り、東御門の比企能員の屋敷が公朝の宿所とされました。
東御門近くの小さな流れに架かる東御門橋
(大意)
大蔵幕府には、四つの門がありました。門の名は、
その門が位置する方角によって名づけられていました。
大蔵幕府の東にある門を東御門とよび、今、地名となっています。
法華堂の東方にあたるこの一帯を、この門の名称にちなんで 東御門といいます。
大正十五年三月建 鎌倉町青年団
鶴岡八幡宮の東の鳥居を出るとすぐ右手の角に、
南御門(みなみみかど)に邸宅を与えられた畠山重忠邸址の石碑があります。
源頼朝の大蔵幕府の南門前にあたり、昭和55年(1980)の発掘調査の際、
「東御門」「西御門」などの現存する地名に対応させて遺跡名としました。
大蔵幕府跡 頼朝館跡
『アクセス』
「大蔵幕府跡碑」鎌倉市雪ノ下三丁目 JR横須賀線鎌倉駅東口徒歩15分
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書、平成8年
神谷道倫「鎌倉史跡散歩(上)」鎌倉春秋社、平成19年
松尾剛次「中世都市鎌倉を歩く」中公新書、2004年
「神奈川県の地名」平凡社、1990年
「神奈川県の歴史散歩(下)」山川出版社、2005年
現代語訳「吾妻鏡(2)(3)」吉川弘文館、2008年