稲瀬川(いなせがわ)は鎌倉大仏高徳院北方の大谷(おおやと)を源流とし、
鎌倉大仏の東方を過ぎ、江ノ電長谷駅の東傍から由比ヶ浜に注いでいます。
全長約2400㍍あり、承久の乱の頃までは、この川が鎌倉の西の境でした。
稲瀬とは水無瀬(みなのせ)がなまったものともいわれ、古くは水無瀬川、
美奈能瀬川とも称し、順徳天皇が著した歌論書『八雲御抄(やくもみしょう)』に
相模の名所として「みなのせ河」があげられています。
江ノ電長谷駅
稲瀬川の石碑は稲瀬川が由比ヶ浜に流れ込む辺の国道134号線に建っています。
かつては相応の広さの川であったため、時には大雨による洪水の被害も受けましたが、
現在、一部を除いてほぼ全域が暗渠となっています。
(碑文)「稲瀬川
万葉ニ鎌倉ノ美奈能瀬河トアルハ此ノ河ナリ 治承四年十月政子鎌倉ニ入ラントシテ来リ
日並ノ都合ニヨリ数日ノ間此ノ河辺ノ民家ニ逗留セル事アリ
頼朝ガ元暦九年範頼ノ出陣ヲ見送リタルモ正治元年義朝ノ遺骨ヲ出迎ヘタルモ
共ニ此ノ川辺ナリ元弘三年義貞ガ当手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ川辺ニ於テ
討死セルモ人ノ知ル所細キ流ニモ之ニ結バル物語少ナカラザルナリ
大正十二年三月建 鎌倉町青年團建」
(大意)
「万葉集に鎌倉の美奈能瀬河とあるのは、この河のことです。
治承四年十月、北条政子が鎌倉に入ろうととしてここまで来ましたが、
日柄が悪く数日間、河辺の民家に宿泊したことがあります。
源頼朝が元暦元年「碑文の元暦九年は誤記」に範頼の出陣を見送ったのも、
文治元年「碑文の正治元年は誤記」に義朝の遺骨を出迎えたのも、
共に此の河辺です。
元弘三年(1333)、新田義貞が鎌倉に攻め入った時、この川の東西が兵火に包まれ、
極楽寺切通しの攻め口の大将大館宗氏(おおたちむねうじ)が
鎌倉幕府軍に包囲されこの川の辺りで討死し
新田軍が一旦退却したことは、人々のよく知るところです。
こんな小さな流れにもこれにまつわる物語は沢山あります。
万葉集に歌われた美奈能瀬河(みなのせ河)も小川と化し昔の面影はありません。
稲瀬川河口の風景
頼朝と北条政子の結婚は治承元年(1177)前後でした。
頼朝が31歳、政子が21歳、同じころ長女の大姫をもうけています。
治承4年(1180)、頼朝は山木兼隆を討って反平氏の兵を挙げると、
政子は頼朝と別れ、伊豆山に匿われました。同年8月28日、石橋山の合戦で
惨敗した頼朝は真鶴から小舟に乗って安房へと落ち延びていき、
政子は伊豆山から伊豆秋戸(あきど)郷(現、熱海付近か)に
隠れ家を移していました。
同年10月、頼朝が大軍を率いて鎌倉に入部したと知ると、政子は鎌倉近くまで
来ましたが、日柄が悪いため稲瀬川西岸の民家に宿泊して鎌倉に入りました。
(『吾妻鏡』治承4年10月11日条)
また、元暦元年(1184)源範頼が平家追討使として西海に赴いた時、
頼朝は稲瀬川川辺に桟敷を構えこれを見送りました。
(『吾妻鏡』元暦元年8月8日条)
頼朝は尾張国野間で殺害された父義朝と鎌田正清(政家)の首を返すよう
後白河院に要求していました。院は京の東獄(左獄)に掛けられた
義朝の首を検非違使に命じて探しださせると、鎌田正清の首も添えて
鎌倉に送りました。その際、頼朝は遺骨を門弟の僧たちの首に掛けさせて
鎌倉にやってきた文覚をこの川辺で迎えています。
(吉川本『吾妻鏡』文治元年(1185)8月30日条)
十数部以上書写されていたであろう『吾妻鏡』は、
南北朝・室町時代の戦乱の中で散り散りになっていました。
吉川本(きっかわぼん)は、戦国時代後期大内氏の重臣
右田弘詮(みぎたひろあき)が収集整理し、
主家の吉川家の蔵本となった『吾妻鏡』の伝本の一つです。
稲瀬川の碑文はこの本の記述を受けて、この辺で
頼朝は義朝の遺骨を受け取ったと刻まれています。
なお、筆者がテキストに使用しています一般に流布している
『吾妻鏡』(新訂増補国史大系に収められている)には、
「頼朝は勅使大江公朝を迎えるため固瀬(かたせ)川辺りに行き、文覚の
門弟たちが首に懸けていた遺骨を自ら受け取った。」と記されています。
これは中世都市鎌倉を広域に捉えた場合には、
西の境界は「固(片)瀬川」となるためと思われます。
承久3年(1221)5月、承久の変で上洛戦を敢行しようと鎌倉を出た
北条泰時はいったん稲瀬川川辺の藤沢左衛門尉清近宅に一泊して
翌日の早朝、先発隊として僅か18騎を従えて上洛していきました。
『アクセス』
江ノ電長谷駅下車 由比ヶ浜に向かって徒歩約8分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(1)」吉川弘文館、2007年 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
渡辺保「人物叢書北条政子」吉川弘文館、昭和60年 奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年
奥富敬之「歴史文化ライブラリー 吾妻鏡の謎」吉川弘文館、2009年
「神奈川県の歴史散歩(下)」山川出版社、2005年 「武家の古都鎌倉を歩く」祥伝社新書、2013年
五味文彦「平家物語、史と説話」平凡社、2011年 「鎌倉事典」東京堂出版、平成4年
神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年