平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




高知市の介良(けら)富士の麓に眠る源希義(まれよし)をたずねました。





はりまや橋から土佐電鉄路面電車に乗って舟戸駅で下車。





途中、介良ふれあいセンター前に「介良史跡めぐり」の案内板があります。

介良川に架かる城山橋



源希義公の家紋(ささりんどう)

城山橋を渡り山手に進むと、民家の傍に
「源希義公墓所 花隈城跡 西養(さいよう)寺跡」の道標がたっています。
道標の背面には「平成二十七年 冬 建之 坂本石材」と刻まれています。





 希義の墓所への上り口左側には、平成五年に建立された
十八代当主山内豊秋氏の
小松石に刻まれた歌碑があります。
♪はかなしや同じ梢の花ながら 咲かで朽ちにし跡のしるしは
ここから右に曲がった山道を進みます。

山内一豊の山内氏は、藤原秀郷の子孫である首藤山内氏の末裔と称しています。
首藤山内氏といえば、頼朝の乳母の山内経俊の母を思い出します。
経俊は石橋山合戦で平家方として参加し、頼朝に矢を放ち、
鎧の袖に一煎を射ました。その後、その罪で領地を没収され
経俊は斬罪されることになります。息子が斬られることになり、
かつては頼朝の乳母であった母は、頼朝に泣く泣く先祖が源家に捧げた
忠を申し述べたのでようやく罪を許されたという。
源頼朝の乳母山内尼  


平治元年(1159)の平治の乱後、源頼朝の同母弟の希義は
土佐国(現、高知県)介良(けら)庄に配流されました。
治承4年(1180)、頼朝が挙兵すると希義も呼応すべく、
夜須七郎行家(行宗)を頼り、夜須荘(現、香南市夜須町)に向かいましたが、
平氏方によって年越山(現、南国市)で討ち取られてしまいます。
平氏の威光を恐れ、そのまま放置されていた希義の遺骸を
介良の琳猷(りんゆう)上人が手厚く葬りました。
琳猷は以前より希義と師僧と檀那の関係にあったので
故人の遺髪を首にかけて鎌倉に赴き、頼朝から寺領を与えられ
西養寺(真言宗)を創建し、長く法灯を伝えました。
正徳3年(1713)に焼失後衰え、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、

現在は当時の石垣の一部が残っています。
 傍らの山林の中に建つ無縫塔が源希義の墓と伝えられています。
ちなみに希義の法名は「西養寺殿円照大禅定門」です。



希義の墓所への上り口はわかりやすいのですが、
墓は林内を探しまわってやっと見つけました。

「悲運の若武者 源 希義
  平治の乱(1159)で平清盛に敗れた源氏の棟梁、源義朝は
尾張国内海の長田荘司忠致に入浴中だまし討ちにあい、
源氏一族の命運は尽きたかに見えましたが、平清盛の継母、池禅尼の
計らいで助命され、頼朝(当時十三才)は、伊豆国、蛭ヶ小島へ配流され、
牛若(後の義経、当時一才)は、京の鞍馬へ押しこめられます。 

兄頼朝と同じ父(源義朝)、母(熱田神宮藤原季範三女、由良御前)の元に
生まれた実弟、当時三才の希義も源氏の本拠、東国を目指し乳人に連れられ、
落ち行く途上香貫(かぬき)(沼津市内)にて、
平家方追補の手にかかり、ここ介良に配流されます。
介良における希義は厳しい平家方監視の中、仇と思う平清盛への憎しみ
命の恩人とも思う池禅尼への感謝の心の葛藤を胸に秘め
隠忍の日々を強いられます。
 
土佐における平家方有力武将、平田太郎俊遠の妹とも、また俊遠の
娘ともいわれていますが、平家方有力武将ゆかりの娘を嫁に貰います。
希義は、仇と思う平家また愛したであろう妻は、
平家方武将の娘、その心中たるや察するに余りあります。
 栄耀栄華を極めたさすがの平家も人心離反し、
落日の如き平家の威光の下、土佐における数少ない源氏方武将
夜須七郎行家と打倒平家の夢を描いたであろう希義は、
平家方の知るところとなり、先手を打った平家軍の前敗走したのでしょう。

  東の夜須氏をひいてはまだ見ぬ兄、頼朝の居わす鎌倉目指し
東走するも夜須氏率いる救援軍は間に合わず、
現南国市鳶ヶ池中学校正門付近で首討たれます。
時は寿永元年(1182)九月二十五日のことでした。
 時に希義には陸盛、希望という二子、また「希望」一子という説があります。

 平家の威光を恐れず放置されたままの希義の遺骸から遺髪をとり、
荼毘(だび)に伏し手厚く葬った僧琳猷(りんゆう)は、頼朝が天下を治めた後、
希義が一子希望を鎌倉へ引きつれ遺髪を献上すると、
頼朝は「亡魂再来」と涙したといわれます。

  征夷大将軍・源頼朝の庇護を受けた希義が一子源希望は、
現春野弘岡の地で基盤を固め、後の戦国時代の七守護の一人
「吉良(きら)氏(ここ介良は元々気良(きら)」へと続くも、
吉良宣直(のぶなお)は天文九年(1540)平家八木氏の末裔といわれる
本山梅渓に、仁淀川で鵜飼のおり、攻撃を受け自刃に追いやられます。
 しかし、吉良宣直の父、吉良伊予守宣経は、天文年間(1532~1555)
周防の大内氏の元から流浪の南村梅軒を招き、
儒学の一派「南学」(海南朱子学)の発祥、普及しその行動的な教えは
幕末勤皇志士の思相(想?)基盤を形成しました。
 源希義の威光は、今日まで我国の隅々迄照らしたもうているのである。
   平成七年(1995)九月二十五日 没後八一三年 源希義公を顕彰する会」

希義を弔う西養寺は、明治の「廃仏毀釈」により取壊され、
当時の住職は還浴し名を「西養二」と改め、寺子屋を開いたという。


希義を祀る源希義神社に希義の墓と伝えられる
卵塔(らんとう)型の石塔があります。



「西養寺跡無縫塔(さいようじあとむほうとう)
1994(平成6)年3月1日高知市保護有形文化財指定
   無縫塔は無辺際の宇宙を表しており、禅宗に発する。
西養寺跡無縫塔は花崗岩製の単制無縫塔で、台石の上に請花、
さらにその上面に八葉の蓮弁を刻する。
塔身正面には種子を刻した月輪の痕跡が見られる。

 この型の無縫塔は京都市大徳寺開山塔(建武4年・1337)を古例とし、
14世紀半ばから15世紀にかけて成立した。
以後時代とともに形状を変えていくが、本無縫塔は形状から、
県内における数少ない室町時代の無縫塔のひとつと思われる。

   石塔は本来、供養塔としての意味をもつが、
この無縫塔が誰のために建てられたのかは明らかではない。
『吾妻鏡』には、西養寺が源頼朝の弟・希義(まれよし)の菩提を
弔うために建てられたとある。この地が『西養寺文書』に
記されている西養寺跡に当たることから、
地元ではこの無縫塔を源希義の墓として祀り伝えている。
  1994年12月 高知市教育委員会」

鎌倉の頼朝の墓所にも、これと同様の駒札がたっています。



木立の中に墓石が静まり希義の悲哀を今に伝えています。

土佐藩第五代藩主山内豊房(やまうち とよふさ)の歌碑
♪いたはしや同じ枝葉の末ながら 咲かで朽ちにし跡のしるしは

希義の鞍掛けの岩 源希義戦死伝承之地の石碑  
『アクセス』
「源希義公墓所道標」高知県高知市介良
とさでん交通バス「介良支所前」下車、徒歩5分
土佐電鉄はりまや電停より約20分、舟戸駅下車徒歩約25分
『参考資料』
「高知県の歴史散歩」山川出版社、2006年 
「高知県の地名」平凡社、1983年
「図説高知県の歴史」河出書房、1991年 
「郷土資料事典(高知県)」ゼンリン、1998年 
現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館、2008年

 



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