平家は四国の武士団を配下に従えて旧都福原に戻り、
西の一ノ谷に城郭を構え、東の生田の森を
大手の木戸口とするまでに勢力を挽回しました。
これに対して源氏軍は二手に分かれて都を出発、
搦手を攻める義経軍は京から大きく迂回して丹波路を進み、
通常なら2日かかる行程をほぼ1日で駆け抜け、三草山麓の東方
小野原(現、兵庫県丹波篠山市)に陣を布きました。
平家方は、義経軍に備えて平資盛(すけもり)を大将軍に
小松家四兄弟が三草山西麓に陣を張り、その行く手を遮断しました。
三草山は丹波と播磨の国境に近い交通の要衝に位置し、険しい山や
深い谷に囲まれているとともに、周辺の福田荘は平氏の荘園であったと見られ、
平氏が地の利を得るこの場所が防衛拠点として選ばれたようです。
義経は頼朝の代官として付き添っていた土肥実平(どひさねひら)や
田代信綱らを集めて軍議を開いた結果、夜襲を仕掛けることになりました。
それは夜半、小野原の民家に火をかけ、三里(約12㎞)の山中を
この明りを大松明として漆黒の闇の中を進むという無謀な計画でした。
義経の軍勢によって放たれた火がたちまち周辺の山野や民家に燃え広がり、
突然鬨の声とともに源氏の軍勢が襲い掛かると、「合戦は明日だろう」と
信じ熟睡していた平氏軍は、慌てふためいて敗走しました。
義経軍は義仲との合戦を終え、義仲を滅ぼしたばかりで疲労しており、
到着した日の夜半にまさか攻撃を仕掛けてくるとは
平氏諸将は誰一人思いもせず、意表をつかれてたちまち大混乱に陥り、
富士川や倶利伽羅峠での惨敗を再現することになりました。
平資盛・有盛・忠房は面目ないと思ったのか、戦場を逃れ
加古川沿いに南下して高砂より海路で屋島に渡り、
師盛(もろもり)はやっとのことで福原の本陣の許へ戻りました。
この時、師盛はわずか14歳でした。
現在、三草山周辺には、義経伝説とともに「御所谷(平家谷)」や
「御所谷新池」の名が残り当時をしのばせています。
平家軍が陣を布いたとして上鴨川から馬瀬に1キロほど進んだ辺りを
御所谷とか平家谷と呼んでいます。(「加東市観光協会義経伝説ルート」)
平家本陣跡モニュメントは、馬瀬から三草山登り口
(加東市山口)の方へ下ったところにあります。
三草山の西方に布陣した平家は、守備に有利な位置に
兵をそれぞれ配置したようです。
御所谷(加東市馬瀬) 御所谷新池(御所谷の南側、加東市馬瀬御所谷)
佐保神社は三草山合戦後、義経が軍兵を集めて体制を立て直したという場所です。
社交差点
佐保神社は北播磨有数の神社として知られ、「社町」は当社の門前町として発展してきました。
北播磨有数の大社、佐保神社の瑞神(ずいじん)門
二階建ての立派な門が参拝者を出迎えてくれます。
当社は「社」の地名の起源となった旧県社で、
『延喜式(えんぎしき)』神名帳に記す坂合神社とされています。
能舞台と百度石
拝殿
稲荷社の鳥居、拝殿その背後に本殿、本殿左に明神社。
毎年10月の体育の日の前の土・日曜日に開催される秋祭りは、
北播磨地方三大祭のひとつに数えられ、
絢爛豪華な神輿・屋台・獅子舞などが奉納されます。
佐保神社近くにある山氏(やまうじ・やもり)神社には、義経御手植の松があります。
同社は佐保神社を当地に勧請奉斎した山氏一族の氏神です。
境内入口に月極駐車場の看板が立っていたので、
車は近くの喫茶店の駐車場に置かせていただきました。
「三草山合戦で勝利した義経が、社村の豪族多田将監の屋敷で一日だけ休み、
一ノ谷へ向けて出発したそうです。その時、今は山氏神社の境内になっている
多田屋敷の中に、義経が自ら植えたとの伝承の松があります。」
(「加東市観光協会義経伝説ルート」)
玉垣の中に建つ石標には、「九郎判官源義経公御手植の松」と彫られ、
傍に松の若木が植えられています。何代目の松でしょうか。
三草山合戦(平家本陣跡) 平師盛の墓(石水寺)
鵯越から一ノ谷へ義経進軍(藍那の辻・相談が辻・義経馬つなぎの松跡・蛙岩)
『アクセス』
「佐保神社」 兵庫県加東市社777
JR加古川線「社町駅」下車、神姫バス社方面行きにて約8分「社営業所」下車すぐ。
車 中国自動車道「滝野社IC」から国道175号を南へ約2km、
社総合庁舎前交差点を左折(東進)約700m 駐車場 あり(50台)
「山氏神社」兵庫県加東市社772
JR加古川線「社町駅」下車約3100m
神姫バス社方面行きにて約8分「社営業所」下車徒歩約4分
『参考資料』
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館、2012年 県史28「兵庫県の歴史」山川出版社、2011年
「兵庫県の歴史散歩(下)」山川出版社、2006年 「兵庫県の地名」平凡社、1999年
「加東市観光協会義経伝説ルート」