壇ノ浦合戦後、義経は兄頼朝との和解のため、
捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下りました。しかし、
捕虜を受け取りに来た北条時政は義経の鎌倉入りを許さず、
「腰越にて沙汰を待つべし」と述べ、頼朝との対面を許しませんでした。
悲嘆にくれた義経は、思いあまってその心情を
満福寺で書状に書き頼朝の側近大江広元に送りました。腰越状です。
腰越は、中世には鎌倉と大磯(神奈川県)の間に設けられた宿駅(腰越駅)でした。
宿駅とは、街道の要所で旅人を泊めたり、荷物を運ぶための
人や馬を集めておいた宿場のことです。
満福寺は駅家(うまや)の跡ともいわれています。
最寄りの江ノ電腰越駅から駅前通りを海岸方面に進み、
「義経腰越状旧跡 真言宗満福寺」の標識を左折して小道に入り
江ノ電の踏切を渡った所に満福寺があります。
源義経の名を書いたのぼり旗が翻っています。(2006年9月撮影)
石段の先に山門が建っています。2015年4月、腰越近辺の
小坪合戦ゆかりの地を巡っている際に再度参拝しました。
そのため、写真はない混ぜのご紹介となっています。
山門をくぐると本堂(昭和6年再建)があります。
龍護山医王院満福寺(真言宗)は、寺伝では、
行基創建と伝えていますが定かではありません。
中興開山は平安時代末期の高範(こうはん)という。
本尊は木造薬師如来(室町時代作)です。
腰越状を代筆する弁慶と義経の新しい像が本堂左手前に建ち、
弁慶の手玉石が本堂の左手から右手前に移されていました。
屋根瓦紋は笹りんどう、欄干には弁慶と義経が彫られています。
本堂には、鎌倉彫の技法を取り入れた漆画による32面の襖絵があります。
物語などで知られた義経・静御前・弁慶にまつわる名場面を描いたものです。
雪の中、都を逃れる常盤に抱かれた牛若丸。
腰越状を書く義経。
吉野での静との別れ。
静御前の舞。
義経の子を生んだ静は、その子が男の子だったため
取りあげられました。
弁慶と共に雪の中を平泉の藤原氏のもとに向かう義経。
弁慶の立往生。
境内には、弁慶の腰掛石、弁慶が墨の水をくんだといわれる硯池、
弁慶の手玉石、義経手洗い井戸などが伝説とともに残されています。
同寺には、弁慶筆と伝える腰越状の下書きがあり、展示されています。
江戸時代の腰越状の版木、弁慶が用いたとされる
椀・錫杖(しゃくじょう)なども所蔵しています。
「腰越状草案のいわれ」
腰越状を草庵するとき弁慶が墨をすっていると、
草むらでこおろぎがしきりに鳴いていた。
そこで弁慶がやめろと叫ぶと、こおろぎはぴたりと鳴きやみ、
境内は静かになったという。
今でもこの境内ではこおろぎが鳴かないと伝えられる。
「源義経公慰霊碑」昭和54年(1979)建立。
文治5年(1189)6月、藤原秀衡の使者がもたらした美酒に浸され
黒漆塗りの櫃(ひつ)に収められた義経の首級を
腰越の浦で首実検したことにちなんで建てられた碑です。
本堂傍に立つ「しらす丼」ののぼり旗に従って進むと
裏山へ続く道があり、腰越の海が見渡せる高台に
「茶房・宿坊 義経庵」と書いた看板が見えてきます。
遅めの昼食をとろうと「生しらす丼」を注文すると売り切れ、
生しらすと釜揚げしらすのハーフ丼でしたが、
春の海の香に舌鼓をうちました。
江ノ島遠望
腰越状ゆかりの満福寺(2)腰越状・義経宿陣之趾の碑
源義経、平宗盛父子を護送して鎌倉へ下向(金洗沢・腰越)
『アクセス』
「満福寺」神奈川県鎌倉市腰越2丁目4-8
江ノ電「腰越駅」から徒歩約5分 無料駐車場があります。
拝観時間9時00分~17時00分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(下)」かまくら春秋社、平成24年
「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社、2005年