大物川緑地はかつて大物浦と呼ばれた入り江の名残で、
源頼朝に追われた義経が船出をしたのはこの付近といわれています。
源平合戦で大活躍をしたにもかかわらず、 兄頼朝と不和になり、
窮地に立たされた義経は都を出て西国で再起を図ろうと
大物浦から船出しました。文治元年(1185)11月6日のことです。
しかし折からの強い西風に煽られて船は難破し、
あえなく住吉の浦に打ち上げられて住吉の浦に漂着し
その夜は摂津の天王寺辺りに泊ったという。
当時の風説は、これを平家の怨霊のしわざとしています。
(『摂州大物浦平家怨霊顕るゝ図』高津市三氏蔵)
大物浦は平安時代以来、船舶の発着地として繁栄していた港町です。
大物は大物川の北側にある大物砂州に位置し、いち早く発展し、
大物川の南側にある尼崎は、それよりやや遅れて発達しました。
室町期以降尼崎が港湾都市として繁栄すると、
大物は尼崎の内とされることが多くなります。
長岡京の造営が始まってまもなくの延暦4年(785)、
淀川と神崎川をつなぐ水路が開かれたことから、平安時代には
神崎川の河口一帯は、河尻(かわじり)と呼ばれるようになります。
この地から直接淀川に船を漕ぎ入れることができるようになり、
河尻は都と西国を結ぶ重要な港として発達していきました。
大物浦は河尻の一翼を担う港町で、大物一帯は、神崎川水系の河口近くにあり、
海の潮流や河川が運ぶ土砂の堆積によって砂州が形成され、
時代とともに地形が変化する場所でした。
戦前から戦後にかけて尼崎市では、工場排水などによる
工業用水としての地下水汲み上げによる地盤沈下が起こり、
ゼロメートル地帯を流れる大物川は水質汚濁が進み、
昭和40年代に埋立てられて延長約6キロメートルの跡地が
大物川緑地となり、公園として整備されました。所々にある
橋の名の碑がかつてここが川であったことを偲ばせています。
大物川緑地は阪神電車「大物駅」東側から続き、
春には、300本近い桜並木が続く美しい公園です。
「伝静なごりの橋」の碑は、辰巳八幡神社に移されました。
次回ご案内させていただきます。
歴史の散歩道「蜆(しじみ)橋跡」
「大物橋北」交差点西側、大物川緑地にある大物橋跡の碑。
石碑の背面には、「昭和五十七年三月 長久勝一書」とあります。
「大物橋北」交差点
「着船橋」こども広場 この近くに「着船橋跡」の碑があるはずですが、
見つけることができませんでした。
若宮(現、大物主神社)は創立年代は不詳ですが、平安時代末期に
平清盛によって勧請されたという伝承があります。
この社の北西には、大物遺跡があり、近年行われた発掘調査の
遺物の出土状況からみて、最も活発に活動していたのが
平安時代から鎌倉時代、特に12世紀後半から
13世紀前半の遺物が大多数を占めています。
このことから大物がもっとも賑わったのは、平氏政権誕生から
鎌倉幕府の執権政治確立期にいたる約100年間でした。
瀬戸内海沿岸各地の土器とともに多量の貿易陶磁器が
出土していることから、当地は物資流通の一大拠点だったようです。
大物橋跡の碑近くに建つ「大物川緑地 歴史の散歩道案内図」と「大物」の説明板。
大物(だいもつ)
尼崎城下の一つ、大物町は平安時代以来繁栄した町場です。
現在地付近の江戸時代の風景を描写した「摂津名所図会」には、
大物橋の北に大物社若宮(現在の大物主神社)が描かれ、
遠くに大物と接する長洲の長洲天神(現在の長洲天満宮)が見えます。
大物橋にかかる水路は大物川の一部で、庄下川の分流でした。
橋の南側一帯には城下町建設前に尼崎の中心であった
大覚寺(現在の寺町へ移転)の寺域がありました。現在地は、
この大物川を埋め立て緑道とし、「歴史の散歩道」として公園整備された所です。
大物の地名由来には、諸説ありますが、平安時代に港町として栄えていた
尼崎の材木集散地がこの地にあり、この巨材を「大物」と呼ばれていたことから、
いつしかこの地を大物と呼ぶようになったという説が有力です。
大物浜から、平安時代末源義経が兄の頼朝の追討を逃れるため、
船出した史実が、のちに謡曲『船弁慶』や歌舞伎の世界で庶民の胸に荒々しき
大物浦のイメージを与えることになりました。尼崎市教育委員会」
(説明板より)
大物浦・大物主神社・義経弁慶隠家跡(源義経の都落ち)
義経鎧掛け松四天王寺 伝静なごりの橋の碑 辰巳八幡神社
『アクセス』
「大物川緑地」 兵庫県尼崎市大物町1丁目18
『参考史料』
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)角川書店、昭和62年
「兵庫県の地名」平凡社1999年
「神戸~尼崎海辺の歴史 古代から近現代まで」神戸新聞総合出版センター
「歴史人 源平合戦と源義経伝説」2012年6月号、KKベストセラーズ