CubとSRと

ただの日記

正論だと思う

2022年11月18日 | 重箱の隅
 
(読者の声1)
 7~8年ほど前は英国に降り立つと明白に空気が日本より悪かった。クルマ社会の英国はディーゼル車が多く、ドイツのディーゼル詐欺によって空気が汚されていたのだ。
 当時すでに日本はハイブリッド車が普及しており、成田空港に帰ってくると空気が美味しかった。ドイツの車産業がこぞって排ガス詐欺を働いたことは問題になったが結局ウヤムヤとなり、続いてドイツ発のEV推進運動が広がった。
 欧州の白人にすればトヨタのハイブリッド技術には逆立ちしても勝てない事実は受け入れがたく、一挙にICEを否定してみせた訳だ。工業技術の進化曲線が無理な力に歪められた格好で、つまり現在のEV推進狂騒曲は性急すぎると考えられる。

 人類は最終的にはICEを捨てEVが取って代わるのは避けられないだろう。だがICEかEVか、現時点での議論の多くは無意味なものが多い。
 現在使用中のICE車両をどれだけ延命させ、混乱なく徐々にEVに交代させるかを語ってほしい。
 急激な進化の途上にある機械の特徴はリセールバリュー、つまり中古価格が極端に低く結局廃棄せざるを得ないことだ。5年落ちの中古EVなど、どれほど安くても買う人はいない。
 すなわち廃棄された大量の中古EVをどうやって環境負荷をかけずに解体・リサイクルするか、バッテリーの製造・廃棄・再生の社会的コストをどうするのか?
 結局現段階ではトヨタのようにあらゆる選択肢を残して研究するのが正解だろう。
 
 ある発展段階において科学的・社会的に正当性、整合性の無いものでも政治的あるいは投機的な力で無理矢理採用・発展させられているのが現在のEVであり、今後奇妙な事故や公害が多発すると考えられる。
 中国のモーターショーで中国EVメーカーの技術者が語った言葉が忘れられない:
「こういう新しい技術は問題が出るのは当然だがそれを恐れては商売にならない。多少の不都合は織り込み済みで売っている。」
 ユーザーの迷惑など気にしないこの思考法は日本人には理解不能だが、世界はこうして進化してゆくのであろう。
  ( Stratocaster )


「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和四年(2022)11月17日(木曜日)
         通巻第7526号 より


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 〈クルマ社会の英国はディーゼル車が多く、ドイツのディーゼル詐欺によって空気が汚されていた〉
 日本でも〈ドイツの車産業がこぞって排ガス詐欺を働いたことは問題になったが結局ウヤムヤとなり、続いてドイツ発のEV推進運動が広がった。〉

 〈急激な進化の途上にある機械の特徴はリセールバリュー、つまり中古価格が極端に低く結局廃棄せざるを得ないことだ。〉
 
 〈ある発展段階において科学的・社会的に正当性、整合性の無いものでも政治的あるいは投機的な力で無理矢理採用・発展させられている〉と〈奇妙な事故や公害が多発する〉のは当然のこと。
 それを〈中国EVメーカーの技術者〉は〈問題が出るのは当然〉、〈それを恐れては商売にならない〉、〈多少の不都合は織り込み済み〉と言った。
 〈この思考法は日本人には理解不能〉。

 なるほど。
 ここで「だから中国は」と結論付けてしまいそうだけど、「日本の常識は世界の非常識」だ。これ、別に中国だけじゃない。日本以外の国は全てそう考えるんだと思っていた方が良い。
 「進化、発展の過程では必ず世間は大なり小なり迷惑を蒙る。それは辛抱して受け入れよう。結局はみんなの幸せのためなのだから。」

 確かに確かに。
 ただ、それが「呼びかけ」ではなく、良くて「通達」、大概は「発令」以上のほぼ「命令」口調で「強いられる」のが現実だから。
 そして、「進化、発展の過程では~」と言いだした当の本人は「身を切る覚悟」なんて全くないというのも大問題。

 ホントに僅か数年前の話なのに、あのディーゼルの排ガス数値の偽装問題、どこへ行った??
 
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世論の形成は言った者勝ち・・・で、何が生まれる?

2022年09月06日 | 重箱の隅
国葬やアフリカへの4兆円支援
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         高橋洋一

【日本の解き方】、本当に税金の無駄遣いなのか 反対派の批判は的外ればかり 

 安倍晋三元首相の国葬やアフリカへの官民合わせて4兆円投資の方針などについて、ネットの一部では「税金の無駄遣い」との声がある。

 税金の無駄遣いかどうかは、どのように判断すべきものなのか。一般論で言えば、財政支出に対して国民の主観的な評価があり、それに見合うかで無駄遣いかどうかとなる。もちろん、主観的な評価は人それぞれであるが、法令に基づく適切な支出でない場合、それが税金の無駄遣いとされるのは、ほとんどの人が納得できるだろう。

 会計検査院の検査では、法令などに違反したら不当事項を含む指摘事項がある。指摘事項のうち不当事項はまさに法令違反なので、指摘事項を税金の無駄遣いと報道されても不思議ではない。
 だが、安倍元首相の国葬やアフリカへの4兆円支援は、それぞれ内閣府設置法や外務省設置法に法的根拠がある。

 国葬に反対する人は、法的根拠がないとして裁判所に対し差し止め請求しているが、裁判所がそのような理由で差し止め請求を認めることはないだろう。
 差し止め請求では、費用の支出を予備費としていることや、国民への弔意の強要になるとの理由も掲げている。しかし、予備費は、予見しがたい支出について、国会の議決で設け、内閣の責任で支出することができる(憲法87条)ものなので、その規定通りである。

 国民への弔意の強要という主張は理解できない。内面の自由があるので、弔う気持ちのない人まで強要しない。一方、国葬の反対は、弔う気持ちのある人を妨害するだけで、むしろ他人の内面の自由の侵害にもなりかねない。
 国葬に反対する人は、しばしば費用が大きいとも指摘する。国葬にかかる費用は2・5億円とされたが、警備費が含まれていないことを問題視し、40億円程度の費用がかかるはずという主張もある。国葬で特別な警備体制になるのは事実であるが、各地から警官の応援があり、それらの警備費は既存の警察予算の範囲内である。
 要するに、国葬について追加的な警備費用はあまりかからない。費用の二重計上はミスリーディングだ。

 アフリカへの4兆円支援についても誤解がある。現時点で詳細は分からないが、追加的な支出であれば、補正予算などでの対応になり、そのときにはっきり分かる。これまでの例でいえば、4兆円のほとんどは融資であり、税金は原資ではないだろう。
 具体的な仕組みの概略は、国債を発行しそれを原資としてアフリカ諸国へ貸し付ける。国債の償還は国民の税金ではなくアフリカ諸国からの貸し付け返済で行われる。であれば、アフリカへの4兆円支援を税の無駄遣いというのは的外れだ。

 国葬費用の2・5億円は、日本で20カ国・地域(G20)級の国際会議を開催できると考えれば問題ないどころか、日本の立場を世界にアピールできるので、またとないチャンスでもある。これを税金の無駄遣いというのは、結局国葬を阻止したい人たちの単なる口実だろう。

  (元内閣参事 官・嘉悦大教授 高橋洋一)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
   松本市 久保田 康文 
夕刊フジ令和4年9月4日採録


 わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン
               頂門の一針 6252号 より
□■■□──────────────────────────□■■□
       
        2022(令和4年)年 9月6日(火)
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風が吹けば山が動く?

2022年07月04日 | 重箱の隅
アメリカは衰退しない 風評に惑わされるな
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            加瀬英明
 
 風評とは根拠がきわめて薄いか、根拠がないのにもかかわらず、多くの人々が真実だと思い込むことをいう。
 風評によって惑わされると、現実を見誤って国益を大きく損ねかねない。
 今日のように情報が氾濫している時代には、正しい判断を行うことが大 切だといえば、反対する者は誰もいまい。


 明治訳語は外国語

「常識」という言葉は、数多くある明治翻訳語の一つである。明治に入るまで、日本語に存在していなかった。
 それまで日本になかった概念が、津波のように押し寄せるなかで日本語の仲間入りをした明治訳語は、漢字の衣を装った外国語のようなものだろう。
 常識はコモンセンス(commonsense)の訳語だが、日本語として用いら れるうちに、いつの間にか、もとのコモンセンスとまったく違った意味を持たされるようになった。
 日本語の「常識」は、社会の全員が事実であると信じていることを、意味している。
 「常識外れ」を『広辞苑』でひくと、「世間での一般的な考え方から大きくはずれること」と説明されている。

 私は英英辞典でもっとも権威があるとされている、『ウェブスタース・ サード・インターナショナル・ディクショナリー』3巻を所蔵しているが、「commonsense(コモンセンス)」をひくと、「good sound ordinary sense. good judgement or prudence」(普通人の正しい、しっかりとした感覚。正しい判断、分別)などと説明されている
 個人がもとから備えている、正しい判断力を意味しており、あくまでも個人から発するものだ。「世間で一般的な考え方」と、まったく異なっている。米国衰退の危機感こそ、米国を奮起させてきた。

 このところどこを向いても、「米国が力を失って、衰退している」という話でいっぱいだ。書店の棚や新聞広告を見ると、『米国崩壊』といった題の本が並んでいて、飽き飽きさせられる。いい加減にやめてほしい。

 米国が落ちぶれたというが、本当に米国が凋落しているか。世界の頂点に立っていたのに、転落しつつあるのだろうか。私はそのようなことはありえないと思う。これは風評だ。米国はいまから30年後、いや半世紀たっても、世界でもっとも大きな力を持っている国であり続けよう。中国や、インド、ましてやロシアが、国力で米国を追い抜くことはありえない。

 私は1950年代末に、米国に留学した。翌年、共和党のアイゼンハワー政 権のリチャード・ニクソン副大統領と、民主党のジョン・ケネディ候補が、大統領選挙を戦ったのを忘れることができない。

 ケネディ候補が「このままゆくと、米国がソ連に追い抜かれる」とさかんに危機を煽り立てたのに対して、ニクソン候補はソ連経済の仕組や、技術力などからいってありえないと、理を尽して反論したが敗れた。

 その3年前に、ソ連がフルシショフ政権のもとで、米国に先駆けて人工衛星『スプトニク』を軌道にのせたために、米国民が強い衝撃を受けた。 米国民は第2次大戦後、米国が“世界のナンバー・ワン国家”でなければならないと信じてきた。

 ソ連はケネディとニクソンが大統領の座を争った1960年から、31年後の 1991年に自壊した。米国が衰退しつつあるという警告は、何も新しいものではない。つねにまことしやかに唱えられ、米国民をそのつど奮起させてきた。
 米国民が常用している、精力増強剤のサプリのようなものだ。サプリ錠だと思ったほうがよい。


 忘れ去られた「強い日本」

 1970年代に米国は、いまから振り返ると信じられないことだが、日本によって追い越されるという恐怖心に駆られていた。日本が今日の中国のようなものだった。

 三菱グループが米国経済のシンボルであるニューヨークのロックフェラー・センター・ビルを買収するかたわら、エズラ・ボーゲル・ハーバード大学教授が『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』という著書を発表して、ベスト・セラーになった。私はボーゲル教授と親しかったが、気の毒なことにこの本が出版された直後に、昇る太陽のはずだった日本のバブル 経済が破裂して、日本が萎(しぼ)んでしまった。

 もう日本国民はこのころのことを、忘れている。健忘症を患っている。 レーガン政権をとれば、ロナルド・レーガン候補が1980年の大統領選挙で、民主党のジミー・カーター大統領がソ連に対する弱腰外交を行い、国 防予算を削ったと攻撃して、「強いアメリカ」をつくり、国防支出を大幅に増額することを訴えて勝った。レーガン政権のもとで、米国は息を吹き返した。

 これまで米国では、衰退してゆくという閉塞的な気分から、自信を取り戻すシーソーゲームを繰り返してきた。
 バラク・オバマ大統領は2011年の連邦議会における年頭教書演説のなか で、「これはわれわれの世代における“スプトニック(危機の)モーメン ト”だ」と、訴えた。
 といっても、1957年にソ連が人類最初に人工衛星『スプトニク』を宇宙軌道にのせた危機を指していたのではない。このままゆくと、中国が米国を追い越してしまうと、危機感を露わにしたのだった。


 風評に惑わされると日本のためにならない

 オバマ大統領のあとを継いだ、ドナルド・トランプ大統領のスローガン は、読者諸賢もよく記憶されておられよう。「アメリカ・ファースト」「メ イク・アメリカ・グレート・アゲイン!」(アメリカを再び偉大な国家としよう)というものだ。 共和党の大統領候補選びで、泡沫候補でしかなかったのに、このスローガ ンによって彗星のように大統領候補の金的を射止めて、ホワイトハウス入 りした。

 米国民は“ナンバー・ワン”の地位を保つために、衰退論を好んでいるのだ。“ナンバー・ワン”の宿痾だろう。そして達磨(だるま)の人形の底におもりをつけた玩具の起上り小法師(おきあがりこぼうし)のように、起きなおる。

 米国はベトナム戦争や、アフガニスタン戦争の失敗によって鼻血をだして、一時、畏縮するが、傲慢無礼な態度を改めることがない。“ナン バー・ワン”の使命を授かっていると、信じている。

 なぜ、米国は“ナンバー・ワン”の力を失わないのだろうか。米国は自由で、熾烈な競争社会である。地縁、人縁を捨てて集まった国であるから、 自分の力と金(かね)の力しか頼るものがない。米国は活力が溢れているから、混乱しているようにみえる。

 いま、ウクライナ戦争という突発事によって“グローバリゼーションの時代”が、一時的に中断されているが、グローバリゼーションは世界の大きな流れだ。誰でも米国を訪れれば、すぐに肌で感じることができるが、米国は国の構成から文化まで、グローバリゼーションにもっとも適している。

 ところが、米国衰退論は困ったことに、ソ連や、中国のような国を鼓舞する。1976年の第25回ソ連共産党大会において、ブレジネフ書記長はソ連圏が米国を凌駕しつつあると誇って、「ソ連の国際的地位は年ごとに強まり、世界に対する社会主義諸国の力がますます強くなっている」と、演説 している。

 中国の習近平主席も中国が興隆しつつあるかたわら、米国が力を衰えさせていると判断して、ことあるごとに「五千年の偉大な中華文明の復興」を訴えて、世界への覇権を拡げる「一帯一路」戦略を進めている。



 わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
               頂門の一針 6187号
   
         2022(令和4年)年 7月3日(日)より
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日本の場合は

2022年06月25日 | 重箱の隅

 全米108の大學にあった『孔子学院』の、104校が廃止された。
  28校でゾンビ復活。「米中姉妹校交換プログラム」などと改称していた
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 ゾンビは復活する。
共産主義は「グローバリズム」と名前を変え、二段構えで国家破壊を狙っている。日本で言えば、皇室伝統廃止を狙う共産主義者等が、当面『女性天皇』、つぎに女系天皇論を推進する長期策謀に似ている。

中国共産党のプロパガンダ機関として、中国のスパイの巣窟と認定された「孔子学院」はトランプ政権の下で、査察が行われ、米国教育省の予算管理下にあるところは徐々に廃校となった。

米国アカデミズム世界は、決断のあるリーダーが出れば劇的改編が可能だ。
日本は左翼学者の巣窟「日本学術会議」への予算を止めれば、売国奴的学者の一斉追放が可能だが、岸田じゃねぇ。
日本の十五の大學にある孔子学院は廃絶の議論さえなく、やりたい放題の中国共産党の第五列として機能し続けている。

 「米国学者アッソシエーション」が照査した、228ページの報告書に拠れば、全米108の大學にあった『孔子学院』のうち、104校が廃止された。
ところが28校でゾンビは復活していた事実が判明した。

「米中姉妹校交換プログラム」「言語研究センター」が等と組織名を改称していたことを保守系メディアの『ワシントン・タイムズ』の花形記者ビル・ガーツがすっぱ抜いた(同紙、22年6月21日)。



「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和四年(2022)6月23日(木曜日)
         通巻第7378号  より

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 古くはマタ・ハリなどの女スパイ、日本ではゾルゲ事件、小説、漫画に登場するジェームス・ボンドや、最近のコードネーム「黄昏」等、「世界の平和のために」大活躍(実際は暗躍)する人物はいくらでもいる。
 ただ、本来スパイというものは、「普通の生活をしながら諜報活動をする者」であって、決して格闘術や暗殺術、変装術に長けていたり特殊な能力を持っていたりというスパイ×ファミリーの「黄昏(誰そ彼)」のような人物ではない。
 早い話が、バーゲンセールですごい勢いでセール品をつかみ取っていく普通(?)の主婦にしか見えないのがスパイであり、本当の諜報活動の中心事項とも言える。セール会場ではなく、場所を替えてみれば分かる。
 新兵器や新技術の展示会場で、周囲の迷惑も考えず、安物のカメラで写真を撮りまくってい中年女性は異様には見えるけれど、誰も彼女をスパイだとは思わない。

 「孔子学院」というのはまさにそれで、語学習得のために来ている学生全てに洗脳教育を施しているわけではない。逆に単に学生から情報を収集する場、と考えた方が良いだろう。あとは金さえ使えば何とでもなる。
 勿論、教える側は楽をして情報が入手できるので安全だし、何しろ所在する大学から、「協力機関だから」と援助金だって入って来る。もう笑いが止まらないんじゃないかな。
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一人なら龍だが

2022年06月23日 | 重箱の隅
「一人なら龍ほどの力を持つ」?・・・・。なるほど一理ある

             2020年03月10日 | 重箱の隅

 前回、「もう用はない。必要なことは全て手に入れた」という姿勢では、劣化版からのコピーが出発点ということだから、量質転化があっても本物を超えることはできない」というようなことを書いた。そこに「恩(教えた者に対する肯定的な見方)」がないのだから、そうなるしかない、と。
 
 彼らの唯物(ただもの)的思考(ただの物としてのみ捉えること)の結果、作り続けられることになる劣化コピーは、何も「物」だけではない。
 形に現れない「モノ」にも、それは起こる。心持、意欲、意識、気概などと言われるものも、取り組み方次第で量質転化は起こるものだし、見えないからこそその量質転化には雲泥の差があるだろう。けど、見えないものだから、最初にそれを切り捨てて学ばなければ、ついに分かることはない。
 
 「今は存在しない新しいもの」、を作り出すのは人間だけだ。そのために手足に指令を出すのは頭(=精神)だ。頭が向上しなければ更なる新しいものは作れないということだ。
 頭を育てることなくして、技術のみでコピーを繰り返す。
 教えられたことがうまくいかなくて「いい加減なこと教えやがって」と舌打ちしながら工夫を重ねるのと、「なぜうまくいかないのだろう。あんなに容易くやって見せてくれたんだけど」と苦しみながら工夫を重ねるのとでは、同じ結果は生まれない。

 たとえて言えば、「教えてみろ。習ってやるから」という傲慢な気持ち。例えば「習うのはいいけど、教授料が高過ぎる。隙を見て機密事項を盗んでやろう」という姑息な心積もり。そういう姿勢から手に入れるものと、謙虚に習おうと自らに言い聞かせ続けるのとでは到達点が全く違う。手に入れた技術自体も違うけれど、それを今後用い続けようという時の心がけに雲泥の差ができることは想像に難くない。
 
 ・・・ということで、すっかり遅くなってしまった「中国人は一人なら龍だが~」のことなんですが。

 「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが、3人集まると虫けらほどになってしまう」
 「日本人は1人なら虫けらだが、3人集まると龍ほどの力を持つ」
             http://news.searchina.net/id/1626190?page=1

 今回のこれまでの日記に書いたことを下敷きにすると、彼の国の人は「恩」を感じて、或いは習う際、教授方を肯定視して、「学びてこれを習う」ならぬ「信じてこれを倣う」という態度が、少なくとも社会主義国家建設以降は、教育されていないらしいことが看て取れます。
 そうなると彼らの話に引用される故事や慣用句、常識とされている語句等も、意外にいい加減にしか把握されていないのではないか、という疑念が起こってきます。それ以前に、「社会主義国」、なわけですから、「中国四千年の歴史」なんて、そのうちの三千九百三十年ほどの国の在り方は否定するわけですからね。
 だから社会主義革命を起こしたわけでしょう?それとも「批判的に接取した」のだからいい、のかな?だから墓まで暴いて否定した筈の学者の名前を冠した「孔子学院」なんてのを世界中に作ることができるということかな?

 そんな彼の国の、世界に誇る存在である「龍」、です。本意を考えたことがあるのでしょうか。ただ何となく使っているだけではないのでしょうか。
 もしかしたら日本人のほうが、よっぽど龍について大事に思っていて、考え、敬して「かくありたい」などと思っているんじゃないか、なんてことを思うんだけど、どうでしょうね。

 「龍」とは何か。勿論、架空の存在です。ただし、怪し気な魔物、ということではなく最高の霊的存在であるとされています。日本では神そのものとして祀られることもあります。那智大社の大滝は飛龍(ひろう)神社というのだそうですが、いうまでもなく「瀧」の文字の通り、「龍」の姿をそこに感じた古人が祀ったことが始まりでしょう。
 雲を呼び雷を起こし、天空を自由自在に駆け回る圧倒的な力を持つ存在。「龍虎」と並び称されることが多いけれども、地上の虎と天空の龍は明らかに扱いが違います。ついでに、黄龍は皇帝の象徴でしたっけ?

 そんな想像を絶する力を持つものが「龍」。
 そうなると「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが~」?えっ?意味分からん。どこが龍だ?どこが龍に重なるんだ???
 しばらく考えました。そしてやっと見つけました。確かにありました、「龍」に重なるところが。
 「天空を自由自在に駆け回る」のが龍、です。この中の「自由自在」が彼らと見事に重なる。「中国人は1人なら龍の如く【自由自在に】駆け回る」。
 自由自在。自らの思った通り、欲望のままにやりたい放題の行動をする。「傍らに人無きが若し」。「傍若無人」、です。
 一人なら周囲が眉を顰める。二人目は自身が眉をひそめながら、でも自分も周囲に嫌な思いをさせていることに気が付かない。
 これが三人集まれば。みんな「自由自在」だから、協力とか団結なんて思いもしない。とにかく「自分の自由自在」の邪魔をするものはみんな敵だ、とばかりに叩き始める。元が「龍の自由自在」ならぬ、「小人の傍若無人」でしかないから、龍の力は持ってない。

 「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが、3人集まると虫けらほどになってしまう」
 「一人なら(実力もないのに)龍だ(と思い込んでいる)」けど、(ただの傍若無人でしかないから、)「三人集まったら(力を合わせるどころかお互いを叩き合う)虫けらだ」
 本当はこういう意味のように思うんですけどね。さて、どうでしょう。


 日本人に関しては言わずもがな、なんで省略します。
 ただ、戦後教育を受けた我々には、ちょっと褒め過ぎかも、という気がしないでもない。

  2017.01/12 

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