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ただの日記

「1月15日は成人の日」だった。

2025年01月20日 | 日々の暮らし
 1月13日(月)

 「今日は成人の日」、らしい。
 昔、段々に華美になってきた結婚式と同じく、成人式の女性の振袖にふわふわの襟巻はたった一度の晴れ着なんだから、と数十万は当然のこと、全て揃えたら百万以上かかるのは当たり前だった。
 基本、振袖と言うのは成人してからは着ないものなんだそうだ。
 でも一生に一度のことだから、と親は争って「うちの娘が一番!」と。

 そんな風潮に「成人式は質素にしましょう」と、国を挙げて華美にする事は控えようという運動が広まった。学生は制服で、制服がなければスーツでという成人式が多く見られた。かくいう自分も学生服で参加したことを覚えている。もう五十年も前のことだ。

 ところが気が付けば、いつの間にか五十年以上前のことをコピーしたかのように。
 今年も各地で白いふわふわの襟巻(ファーっていうやつ?)をした着物姿の娘たちが・・・・。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

             2018年1月10日の日記より
 《世間話 「成人式」》


    (略)
 それにしても一月八日が成人の日、だなんて未だにピンと来ない。
 ずっと「成人の日」は一月十五日、と決まっていた。それが「ハッピーマンデー」とやらで、第二月曜日になったんだとか。「大事な祝日を!ふざけとる!」
 ・・・・なんてことを思ったんだけど、じゃ、「何で一月十五日だったんだ?」となると、これがはっきりしない。それで何となく小正月に関係があるんだろう、くらいに思っていた。

 30年くらい前だったか、ひょんなことからこれ(成人式)が戦後に生まれたものだと知った。
 それも埼玉県の蕨市が戦後に「新しい日本をつくっていく若者たちにエールを送るため『成年式』をやろうではないか」と言い始めたのが発端らしい。(当時は青年祭という名だったそうだ)
 この話を聞いて「そりゃ、いいことだ」、と全国で倣う自治体が続出、「それならばいっそ国民の祝日にしようではないか」、となった。
 「新生日本」らしい、何とも軽いフットワークだ。そこはそれ、清新の気に溢れている感じがして良いものだ、とは思う。

 ただ、問題はそうやって思い遣りから至れり尽くせりのことをやっていると、それが当たり前のことになってしまい、いつしか本来の目的が忘れ去られてしまいがちになる、ということだ。「祝ってやりたいと思う」側も、「心遣いを喜ぶ」べき側も、だ。
 祝うのは「新しい仲間ができる。これから地域を支える力となって頑張ってくれよ!」という激励の気持ちからだ。
 祝ってもらう側は「まだ何もできないのに、一人前の大人として認めてくれるんだ。期待に応えるため、頑張ります!」と決意表明をする。
 双方の気持ちが一緒になって、感動し、意気に感ずるから、社会が栄える。

 けれど、最初に行った蕨市や、それに倣った市町村はともかく、いきなり「国民の祝日」となって
 「うちの町もその日に成人式、やらなきゃまずいだろ。式なんだから、式次第考えて、会場を押さえて、来賓は誰を呼べばいいんだ?準備は他に何をすればいいかな?ええと、それから・・・」
 、なんて、多くの市町村の役所がバタバタしたであろうことは容易に想像できる。
 本来の
 「新成人に期待する!これからの我が町の発展のために頑張ってくれ!」
 と、プレッシャーをかける気迫が主催者側に薄く、ただの「行事」として「こなそう」というやっつけ感が生れる。
 祝ってもらう方も「成人式ぃ~?めんどくせえ~!」、なんて。

 どの地域にも「成人式」みたいなものはあった。でも、それは一様に「大人になることを覚悟する」「大人になる意志表明をする」新成人達に対して、その心意気を祝ってくれる、というものだったと思う。
 漁師町の若衆宿での荒っぽい肝試しみたいなことは立派な成人式だし、武士の元服や、江戸期以前からの郷士や地侍の集落での「名替え式」、「烏帽子式」などは厳粛なものだった。
 「ここから大人の仲間入り」、ということだから大人としての仕事が配分されることになる。できない、では済まされない。
 だから「ちゃんと命がけで取り組みます」と決意表明をしなけりゃならない。そんな場所で他人に迷惑かけての乱痴気騒ぎ、なんてのは言語道断、即刻手討ちもの、の所業だ。そんなのは「決意表明の場をぶち壊す」ことでしかないからだ。

 大体、新成人の「意志・覚悟の有無」が分からない段階で、大人側から一方的に祝ってやる、なんて考えてみればおかしな話だ。
 それに加えて成人式だから振袖着ていかなきゃなんねえ、なんてのは全くナンセンスな発想だし、そんなバカな文化は日本にはなかった。
 そう考えると、今の成人式なんて機動隊を動員したり、警備体制を厳重にしたり、で。そこまでしてしなきゃならない物なのかな、と思ってしまう。

 いや、別に「地域住民として、地域発展のために尽くすことを誓います」と、誓詞血判を提出すべきだ、とまでは言わないけどね。
 でも、折角、御膳立てしてくれてるんだから、
 「日本人として恥ずかしくない生き方をしよう」
 と胸中で誓うくらいは当然のことと思います。



 追。
 内閣府のホームページには下記の通り
成人の日
1月の第2月曜日おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
 とある。
 「大人になったことを自覚する」新成人を「祝い励ます」大人。
 そういうことだから、双方にその気がなければ「成人式」は成り立たないし、挙行すべきではない。・・・は言い過ぎか。


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