CubとSRと

ただの日記

成人式の意義 (風化)

2025年01月21日 | 日々の暮らし
 成人式の始まりは「祝ってやろう」「頑張ります!」で、「元服」とか「烏帽子式」「名替え式」と名称は変わっても「祝ってやろう」「頑張ります!」の心持ちに変わりはなかった。
 
 そうだったのが、いつの間にか「祝ってやろう」が形式と事務に流れ、「頑張ります!」が「この日以降は『バカ』をやるのはやめよう、『卒業』だ」、と「バカの仕納め日」になり、今成人式は漂流を続けている・・・・。

 ・・・などということはない。テレビの新成人インタビューなどでは「一人前の大人として社会に貢献できるように」みたいなことを語る新成人の方が間違いなく多い。
 でも、例えば会社という小さな社会だって新人には研修期間がある。成人式を終えていきなり「一人前の大人として社会に貢献できる」なんてことはあり得ない。心意気はあっても(それだけでは)できない。今は「心意気を買ってくれ!」しか言えない。成人式を「バカの仕納め日」としか捉えていなければ。

 さて。
 先日、Xで見たんだけど。北九州市の成人式の乱痴気騒ぎは実は眉を顰めるようなものではなく、普段は真面目な消防士や公務員事務職の者も多くいるという。
 そして却ってそういう新成人の方が主流で数も多く、彼らはこの日のためにコツコツと貯金した大枚をはたいてあの豪華な刺繡入りの白い紋付きの羽織・袴、大漁旗、改造車などを用意する。
 そして式当日は行事そっちのけで大騒ぎをして、式の翌日にはまた地味で堅実な生活に戻るのだ、と。
 だから、彼の地の成人式は市をあげて観光の目玉に押している云々。

 正直、呆れてものが言えない。
 新成人も新成人なら大人も大人だ。成人式の捉え方が間違っている。
 新成人の方は、或る意味「ガキ」、の一言で済む。「バカの仕納め日」としか捉えていないならそうなってもしょうがない。(それを良いといっているのではないが。)
 問題は大人の方だ。そういう捉え方を許すのみならず、観光資源として捉えようという考え方。当人たちは「若者のやっていることを今日だけは大目に見てやろう、一石二鳥だ」、と思っているのかもしれない。その考え方は薄汚い。
 「成人式を金儲けの手段に」、なんてのは大人のする事じゃない。
 「祝ってやろう」という気持ちはどこへ行ったんだ。

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「1月15日は成人の日」だった。

2025年01月20日 | 日々の暮らし
 1月13日(月)

 「今日は成人の日」、らしい。
 昔、段々に華美になってきた結婚式と同じく、成人式の女性の振袖にふわふわの襟巻はたった一度の晴れ着なんだから、と数十万は当然のこと、全て揃えたら百万以上かかるのは当たり前だった。
 基本、振袖と言うのは成人してからは着ないものなんだそうだ。
 でも一生に一度のことだから、と親は争って「うちの娘が一番!」と。

 そんな風潮に「成人式は質素にしましょう」と、国を挙げて華美にする事は控えようという運動が広まった。学生は制服で、制服がなければスーツでという成人式が多く見られた。かくいう自分も学生服で参加したことを覚えている。もう五十年も前のことだ。

 ところが気が付けば、いつの間にか五十年以上前のことをコピーしたかのように。
 今年も各地で白いふわふわの襟巻(ファーっていうやつ?)をした着物姿の娘たちが・・・・。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

             2018年1月10日の日記より
 《世間話 「成人式」》


    (略)
 それにしても一月八日が成人の日、だなんて未だにピンと来ない。
 ずっと「成人の日」は一月十五日、と決まっていた。それが「ハッピーマンデー」とやらで、第二月曜日になったんだとか。「大事な祝日を!ふざけとる!」
 ・・・・なんてことを思ったんだけど、じゃ、「何で一月十五日だったんだ?」となると、これがはっきりしない。それで何となく小正月に関係があるんだろう、くらいに思っていた。

 30年くらい前だったか、ひょんなことからこれ(成人式)が戦後に生まれたものだと知った。
 それも埼玉県の蕨市が戦後に「新しい日本をつくっていく若者たちにエールを送るため『成年式』をやろうではないか」と言い始めたのが発端らしい。(当時は青年祭という名だったそうだ)
 この話を聞いて「そりゃ、いいことだ」、と全国で倣う自治体が続出、「それならばいっそ国民の祝日にしようではないか」、となった。
 「新生日本」らしい、何とも軽いフットワークだ。そこはそれ、清新の気に溢れている感じがして良いものだ、とは思う。

 ただ、問題はそうやって思い遣りから至れり尽くせりのことをやっていると、それが当たり前のことになってしまい、いつしか本来の目的が忘れ去られてしまいがちになる、ということだ。「祝ってやりたいと思う」側も、「心遣いを喜ぶ」べき側も、だ。
 祝うのは「新しい仲間ができる。これから地域を支える力となって頑張ってくれよ!」という激励の気持ちからだ。
 祝ってもらう側は「まだ何もできないのに、一人前の大人として認めてくれるんだ。期待に応えるため、頑張ります!」と決意表明をする。
 双方の気持ちが一緒になって、感動し、意気に感ずるから、社会が栄える。

 けれど、最初に行った蕨市や、それに倣った市町村はともかく、いきなり「国民の祝日」となって
 「うちの町もその日に成人式、やらなきゃまずいだろ。式なんだから、式次第考えて、会場を押さえて、来賓は誰を呼べばいいんだ?準備は他に何をすればいいかな?ええと、それから・・・」
 、なんて、多くの市町村の役所がバタバタしたであろうことは容易に想像できる。
 本来の
 「新成人に期待する!これからの我が町の発展のために頑張ってくれ!」
 と、プレッシャーをかける気迫が主催者側に薄く、ただの「行事」として「こなそう」というやっつけ感が生れる。
 祝ってもらう方も「成人式ぃ~?めんどくせえ~!」、なんて。

 どの地域にも「成人式」みたいなものはあった。でも、それは一様に「大人になることを覚悟する」「大人になる意志表明をする」新成人達に対して、その心意気を祝ってくれる、というものだったと思う。
 漁師町の若衆宿での荒っぽい肝試しみたいなことは立派な成人式だし、武士の元服や、江戸期以前からの郷士や地侍の集落での「名替え式」、「烏帽子式」などは厳粛なものだった。
 「ここから大人の仲間入り」、ということだから大人としての仕事が配分されることになる。できない、では済まされない。
 だから「ちゃんと命がけで取り組みます」と決意表明をしなけりゃならない。そんな場所で他人に迷惑かけての乱痴気騒ぎ、なんてのは言語道断、即刻手討ちもの、の所業だ。そんなのは「決意表明の場をぶち壊す」ことでしかないからだ。

 大体、新成人の「意志・覚悟の有無」が分からない段階で、大人側から一方的に祝ってやる、なんて考えてみればおかしな話だ。
 それに加えて成人式だから振袖着ていかなきゃなんねえ、なんてのは全くナンセンスな発想だし、そんなバカな文化は日本にはなかった。
 そう考えると、今の成人式なんて機動隊を動員したり、警備体制を厳重にしたり、で。そこまでしてしなきゃならない物なのかな、と思ってしまう。

 いや、別に「地域住民として、地域発展のために尽くすことを誓います」と、誓詞血判を提出すべきだ、とまでは言わないけどね。
 でも、折角、御膳立てしてくれてるんだから、
 「日本人として恥ずかしくない生き方をしよう」
 と胸中で誓うくらいは当然のことと思います。



 追。
 内閣府のホームページには下記の通り
成人の日
1月の第2月曜日おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
 とある。
 「大人になったことを自覚する」新成人を「祝い励ます」大人。
 そういうことだから、双方にその気がなければ「成人式」は成り立たないし、挙行すべきではない。・・・は言い過ぎか。


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二十四節気

2025年01月19日 | 日々の暮らし
 1月12日(日)

 6時5分から6時40分まで散歩。
 真っ暗な中、顔に冷たいものがあたる。
 雨かと思ったが雨粒より小さく冷たい。遠くの街灯を頼りに透かし見る。
 どうも小さな雪の粒らしい。

 夕方カレンダーを見たら、今日は二十四節気の一つ「小雪」らしい。
 「こゆき」ではなく「しょうせつ」と読む、と思う。

 昔、勤務先で同僚が「今日は必ず雨が降る。『雨水』だから」と言った。
 勿論、読み間違えて「あまみず」と言った。
 誰かが「それ、『うすい』じゃないか」と言って、笑いが起こった。
 言った当人も恥ずかしがる風もなく一緒になって「そうなんか!知らんかった!」と笑っていた。

 まあ、他人のことは言えない。自分だって「二黒土星」のことを「にこくどせい」と言って「それ、『じこくどせい』と言うんやで」と年長者に教えられ「へえ~、そうなんですか!」と言った記憶がある。
 これ、全て振り仮名のないのが悪い!  ん?

 昼前になって、今年初めてSRで出る。
 さすがにもう凍結した雪は残っていまい、と、ひよどり台へ。
 予想通り。
 帰りに足を延ばして衝原湖へ向かう。
 日の峰入り口を出たら、道はともかく傍らの斜面には雪が残っていた。
 衝原湖までの道中も凍結防止剤を含んだ濡れた路面が続く。

 午後1時前。
 衝原湖には時間が時間だ、当然のこと知った顔はなかった。
 すぐ折り返す。隣市の道の駅まで行く気にはならない。
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2025年01月18日 | 日々の暮らし
 1月11日(土)

 2時半近くになって寝て、でも目覚ましは5時半にセット。
 4時を過ぎて目が覚める。

 昨晩と変わらぬ冷え込みだったので、まだ道路の凍結部分は残っている筈。
 土曜日だ、学校は休みだろうから遅くなってから散歩に出たって問題はあるまい、と7時まで寝ていた。

 血圧を測ったりしているうちに7時半になり、慌てて朝食の準備。
 年末に少ししか残ってなかった米は、昨晩仕掛けようと計ってみたらちょうど一合分。勿論、先日新米を購入しているから問題はないのだが。
 残っている米は島根米。今年買ったのは新潟米。同じ米だ、一緒に炊いたってどうってことない、と思いながらそれも米に失礼なようなと思っている。

 初めて、米一合で粥を炊いてみるか、という気になった。それで仕掛けて置いた。
 炊き上がるのが楽しみだったが、米一合の「粥」ってのは分量的にどうなんだろう。一食には多く二食には足りない、何とも微妙な量かも。
 それよりもちゃんとした「粥」なんて十数年前に胆石の施術で入院した時以来食べたことがない。先日の「七草粥」だってそうだけど、いつもは「粥」でなくて「雑炊」だ。
 生まれて初めて「粥」を炊く。勿論、炊くのは電気釜の仕事だけれど、電気釜で粥を炊くとどんなのができるんだろう。
 二十数年間使っている電気釜(粥を炊く機能も付いている)だけど、とにかく一度も使ってない「炊粥(?)」機能を使う。

 結果を早く見たかった。いつもと違って粥の朝食を摂り、朝食の後に洗濯物を干し、習字。それから散歩。普段の反対の順番。そういう計画。

 炊き上がった粥を見て、更に食べて、「これはもう、雑炊の方がいいかな?」と結論。雑炊と違って歯応えがほとんどない。食べた気がしない。

 2時を回って資源ごみを捨てに行く。

 明日は今年初めてSRに乗るか。
 
 
 
  


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今日の用事

2025年01月17日 | 日々の暮らし
 1月10日(金)

 今日はとにかく薬を受け取りに行くこと。
 その準備として、月に一度の診察がある。
 診察あってこその投薬なのだけれど、血圧測ってもらって二、三の問診だけ、だから何だか価値基準が自分の中でおかしくなってる。
 「薬が全て!」
 それでもまあ、診察をメインに行動を決定している。

 好天で風もない。この分なら気温が高くなれば出歩くことも可能だ。
 だが、何しろ市街地より2度は気温が低い土地だ、日陰は油断ができない。
 雪はほぼ解けたものの、道の両端、それから道の中央にも少し残っている。
 雪というより雪だった氷の塊が瘡蓋(かさぶた)のように路面に張り付いている。雪より始末が悪い。

 今朝の散歩はやめた。サボったわけではない。暗いうちの散歩は足元が見えないので危険だ。
 今日は、まだ車までは出られない。カブでもいきなり目の前が凍結していれば、2輪2足走行は無理だ。となれば、病院には歩いて行くしかない。

 昨晩からそのつもりで服を選ばなければ、と考えていた。
 一番の問題は血圧を測るので長袖の下着を着ることができないということ。
 ジャケットはともかく、それ以外は袖をまくるだけで何とかできないか。
 セーターも駄目、カーディガンも駄目、となると寒さしのぎに着ることのできる物はベストのみ。
 歩いて行く。なら、やっぱりコートを着て行くしかない。

 冷え込みは昨朝よりも酷かった。病院まで15分少々。到着するまで足の指は冷えたままだった。
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