長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

187. 開創一千二百年 高野山滞在記 (一)奥の院参詣  

2015-04-20 20:37:04 | 旅行

今月、9日から12日まで三泊四日で和歌山県の高野山に滞在してきた。「一度参詣高野山 無始罪障道中滅」 「高野山に一度上れば、生前からの罪が消滅する」と、昔から語り継がれてきた標高900m前後の山上盆地に広がる宗教都市である。恐山(青森県)、比叡山(京都府、滋賀県)と並び日本三大霊場の一つとされている。今日的に言えば「強力なパワー・スポット」というふうに書くのだろうか。平安時代に弘法大師・空海が真言密教の修行道場として開き、今年開創一千二百年の節目を迎えた。

節目の記念すべき年ということもあり4月から5月にかけて毎日のように記念法会が開催され、普段はなかなか観ることができない秘仏や絵画などの仏教美術も観られるとあって、思い立って旅支度をした。千葉を始発で出て、東京駅から新幹線を新大阪で乗換、なんばの駅から南海電車とケーブル、路線バスを乗り継いで高野町の中心、千手院橋の交差点に着いたのは13:44だった。蕎麦屋で遅い昼食を済ませ、今晩の宿である宿坊寺院に挨拶してからまっすぐに奥の院大師御廟へと向かった。高野山に登ったら、まず初めにここを訪れたい。

参道の入り口である一の橋を過ぎると鬱蒼とした杉の巨木の並木の参道に入る。カラス科のカケスが1羽頭上で鳴き、森林性の野鳥ゴジュウカラの良く通る囀りがフィフィフィフィフィ…と聞こえてきた。深山幽谷の趣である。しばらく進むと参道の両側には夥しい数の石碑が目に入ってくる。その数20万基と言われる石碑(供養塔)を順番に見ていくと武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、石田光成、明智光秀、織田信長、徳川家、豊臣家等々歴史になだたる戦国武将の名前が刻まれている。そして武将だけではなく参道の周辺には法然上人の供養塔や親鸞聖人の霊屋も見られた。敵味方、宗派の違いを超えて高野山に眠るという寛大さが大きな魅力となっている。多くの供養塔は長い年月の間に割れたり苔むしたりしていて独特の雰囲気を醸し出していた。

ゆっくり写真撮影などをしながら一時間ほどで御廟橋に到着。ここから先は聖域となるため写真撮影などは禁止となる。今年は参詣者が多く、四国遍路を終えた白装束の団体さんなどと共にゆっくりと奥へと進んでいく。高野山には『入定信仰』というものが伝えられている。それは「ブッダの入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩がこの世に降りてきて人類を救う。その下生の地が高野山であり、835年この地で永遠の禅定に入った弘法大師・空海は今もなお生き続けて人々を見守り幸福を願い続けているのだ」と今日まで信じられてきている。3年ぶりの再会。御廟前でこの節目の年に参詣できたお礼と旅の無事を祈願した。ここで弘法大師・空海晩年の有名な願文の一節を。

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きなん(この世界がつき、すべての生命がつきて、命の連鎖からの脱却、命への執着からの解脱。それがつきれば我が願いもつきよう)」

そういえば、幻想文学者の澁澤龍彦氏は晩年、日本回帰の小説やエッセイを書いていたが、『古寺巡礼』というシリーズの最後に高野山を訪れる計画を立て、とても楽しみにしていたという。残念ながら病状が悪化してしまい実現できなかったが、澁澤氏が、この山深い霊山を訪れていたらどんな文章を書いていたのだろう…想像を巡らせてみた。ここで今日はタイム・リミット。チェックインの時間も近い。今日の宿となる宿坊までの道を急いだ。つづきは次回。画像はトップが御廟橋手前から見た奥の院。下が左から開創1200年のフラッグで賑やかな南海なんば駅ホーム、奥の院参道の苔むす供養塔2カット。