昨秋、東京目黒区にある(公財)日本野鳥の会本部に柳生博会長を訪れ、お話しをうかがう機会を得た。僕としては所属する自然保護団体の会長であり、昔から俳優として1ファンなのだから渡りに船だった。実は柳生会長と直接お会いするのはこれが二度目である。一度目は都内で開かれた野鳥の会の古い会員の集いに出席した時でお酒の席だった。当然ブラウン管を通してしか接したことがなかったのだが、ご本人はとても明るくフレンドリーな方でリアルでもファンになった。
今さらだが柳生博さんは、1937年茨城県生まれで、俳優、司会者、タレント、作庭家であり、2004年からは(公財)日本野鳥の会第五代会長に就任、コウノトリファンクラブの会長でもある。そして現在、住まわれている山梨県北杜市のパブリックスペース『八ヶ岳倶楽部』の主催者である。
さまざまな番組に出演し華々しいご活躍をされた方だが、ここまで順風満帆できたわけではない。若い頃は船乗りを目指して商船大学に入学するが体調不良で中退、その後俳優を目指し劇団俳優座の養成所に入所し役者としてスタートしたのだが、TV俳優としては遅咲きだったという。30代半ば過ぎまではTVに出演しながら肉体労働のアルバイトをしていたという苦労人でもある。その後の活躍はここで書くまでもなく誰もが知っているとおりである。
鳥仲間の方と五反田駅から目黒川沿いにテクテクと歩いて行き15分ほどで日本野鳥の会の本部に到着した。係の人に会議室に通されしばらく待っていると、柳生博会長が登場した。挨拶をし名刺交換などを済ませた後に、高校生の頃、TVの青春ドラマに登場した柳生さん演じる『塚本先生』のファンだったことを告げる。ドラマの中では主人公をいじめる嫌われ役なのだが、長い放映の中で一回だけ『塚本先生』が主人公になった回がある。内容は娘さんとの人情話で悪い父親が優しい面をみせるというもの。すると柳生さんが一言「そういうひねくれた人が時々いるんだよねぇ」と言われた。だが、何故か自分の俳優、柳生博の始めのインパクトはこのドラマなのである。
会長のお話が始まって、右へ左へ移動しながらポートレイト撮影をしていると、さすがに俳優である。顔の表情、手の動きが実に豊かである。そして話がとてもおもしろい。生まれ育った茨城県霞ケ浦地域での自然の中での遊びの話、前に書いたが船員を目指すが事情で俳優に転向した頃の話、TVの俳優としてヒットして年間700本も番組に出ていたという超ハードな頃の話、八ヶ岳の山麓に移住、荒れ果てた雑木林を整備、再生し作庭を始めた頃の話、そして訪問者が増えてきたので、より多くの人たちが自然を楽しめるパブリックスペースとして『八ヶ岳倶楽部』をスタートした頃の話、野鳥の会の会長に就任した頃、愛知県豊橋市の里山での地元の人々のコウノトリの保護活動に感動、共感しコウノトリファンクラブの活動に参加したことなど…途切れることがなく情熱的に語っていただいた。時計を見るとあっという間に二時間が過ぎていた。わずか5人ほどの少人数のギャラリーでの贅沢な講演会が終了した。このお話しの中で印象に残った言葉がいくつかあるのだが、最も強く残ったのは「我々の世代は戦後の時代を馬車馬のように働いて駆け抜けてきたんだけど、その反面失ってきたことも数多い。」という前置きから「特に自然環境はたくさん破壊されてきたね。僕は残された人生、野鳥を始め自然や他者に少しでも迷惑をかけないで生きていきたい。そのことが我々世代に課せられた大きな責任なんだ」と語っていたことである。自分を含めた世代を加害者として捉え、反省しつつ前向きに生きていこうとする人に久しぶりに出会えた気がする。78才、今この人が熱い。
最後に3人、三つ巴で硬い握手。会長の情熱が大きな掌から伝わってきた。柳生会長、ご多忙の中、貴重な時間とお話しをいただきありがとうございました。感謝します。そして、いろいろとお気遣いいただいた日本野鳥の会本部スタッフの方々に感謝します。
この記事の掲載は柳生会長と野鳥の会本部のご好意により掲載しています。