今月13日。千葉市美術館で18日まで開催されていた『浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術』展を午前中から観に行ってきた。昨年、展覧会の予定が発表された頃から必ず観たいと思っていた展覧会である。
それにしてもこの千葉市美術館は良い企画展を開催している。開館当初より企画内容がしっかりしている。おそらく奇想絵画と浮世絵の専門家である初代館長、T氏のコンセプトが今も継承されているのだろう。現時点で展覧会のレベルの高さは県内でも屈指のものであると思う。そして予算もきちんととれていて図録などもしっかりとして画集のようである。別にこの美術館の宣伝マンではないのだけれど、こうして毎回、もう一度観たい内容を提示してくれると称賛もしたくなるのである。それはそうと展覧会だが、期待通り充実した濃い内容でたいへん見応えがあるものだった。今回も時間が許せば、もう一度観に行きたいと思ったほどである。
浦上玉堂(1745~1820)は日本絵画史の中で、独創的な水墨画家、また日本を代表する文人画家として有名であるが、自身は「自分は絵の描き方を知らず、気ままに描くのだから画人というのは恥ずかしい」と記して画人、専門家であることを否定し、本分は七弦琴を以て「音律を正す」ことを願う「琴士」であると公言しいていたという。
今回の展示で特筆すべきは玉堂の名作が観られるのはもちろんのことだが、長男で画家の春琴(1779~1846)と次男で音楽家、画家の秋琴(1785~1871)の作品を合わせて数多く観られる点である。
第一会場に入ると、まずはじめに玉堂の脱藩前後の40代から50代にかけての作品が出迎えてくれた。それにしても玉堂という人はかなりの変わり者である。寛政六年(1794年)、岡山藩の武士だった彼は先祖代々の俸禄をすべて捨て、16歳の春琴、10歳の秋琴の二子を連れて放浪の旅へと出発してしまうのである。それは76年間の生涯において、この時代老境に入った50歳でのことであったという。この事実だけでも相当に変わり者である。
そして逸る気持ちを抑えつつ会場をゆっくり移動しながら観て行くとメイン会場にたどり着く。大きな縦長の山水風景が次々と登場する。いわゆる誰もが思い浮かべる玉堂調の力強い水墨画に圧倒され言葉を失っていた。絵の中で木々はざわめき、山々はうねる様に天を突くように伸びあがる。墨の黒と紙の白の単純な構成ではあるが、まるで未知の生き物が会場のところ狭しと蠢いているかのような錯覚すら覚えてしまうほどだった。体中が熱くなって興奮してきているのが解る。ちょうどこのあたりで空腹にもなってきたのでレストランで昼食をとって仕切りなおしてから第二会場を観ることにした。
第二会場からは春琴と秋琴の二人の息子たちの作品がメインとなる。始めは春琴。この人はとても達者な「上手い画家」である。中国画もかなり熱心に学習したようだ。そして何より驚いたのは父親のダイナミズムとは打って変わって画風が繊細であることだった。神経の行き届いた緊張感のある細い描線、綿密に計算された構図、効果的な着彩による山水画、花鳥画、美人画とどれをとっても駄作がなく名品ずくしである。かなり人気のある売れっ子画家だったようで、この春琴が名声を得たことで父、玉堂が自由奔放な生き方と絵画制作ができ、そして名を残すことができたのだとも伝えられている。
息の抜けない春琴の作品が途切れたところで次男の秋琴作品の登場となった。この人は親子で岡山藩を離れた翌年、11歳で会津藩の藩士に取り立てられた。専門は音楽で藩では「雅楽方頭取」なども務めている。そして本格的に絵を描き始めたのは隠居後の80歳を過ぎてからだという。さすがに父、兄と比較すると画力には差があるように思われたが、80歳という年齢を考慮すると、この勢いのある筆致はなかなかのものであるとも思った。小技などはないが骨太で迷いのない筆運びによる味のある山水画が印象に残った。
結局、会場を出たのは予定していた時間をはるかに超えて午後遅くとなってしまったが、かなり充実し満足した時間を過ごすことができた。叶わなかったのだが、今年の「もう一度観てみたい」と思えた数少ない展覧会の一つとなった。画像はトップが玉堂の山水画。下が向かって左から玉堂作品3点、春琴作品3点、秋琴作品2点と千葉市美術館看板、美術館外様、春琴画の玉堂図。(作品画像は全て展覧会図録からの部分複写です)
それにしてもこの千葉市美術館は良い企画展を開催している。開館当初より企画内容がしっかりしている。おそらく奇想絵画と浮世絵の専門家である初代館長、T氏のコンセプトが今も継承されているのだろう。現時点で展覧会のレベルの高さは県内でも屈指のものであると思う。そして予算もきちんととれていて図録などもしっかりとして画集のようである。別にこの美術館の宣伝マンではないのだけれど、こうして毎回、もう一度観たい内容を提示してくれると称賛もしたくなるのである。それはそうと展覧会だが、期待通り充実した濃い内容でたいへん見応えがあるものだった。今回も時間が許せば、もう一度観に行きたいと思ったほどである。
浦上玉堂(1745~1820)は日本絵画史の中で、独創的な水墨画家、また日本を代表する文人画家として有名であるが、自身は「自分は絵の描き方を知らず、気ままに描くのだから画人というのは恥ずかしい」と記して画人、専門家であることを否定し、本分は七弦琴を以て「音律を正す」ことを願う「琴士」であると公言しいていたという。
今回の展示で特筆すべきは玉堂の名作が観られるのはもちろんのことだが、長男で画家の春琴(1779~1846)と次男で音楽家、画家の秋琴(1785~1871)の作品を合わせて数多く観られる点である。
第一会場に入ると、まずはじめに玉堂の脱藩前後の40代から50代にかけての作品が出迎えてくれた。それにしても玉堂という人はかなりの変わり者である。寛政六年(1794年)、岡山藩の武士だった彼は先祖代々の俸禄をすべて捨て、16歳の春琴、10歳の秋琴の二子を連れて放浪の旅へと出発してしまうのである。それは76年間の生涯において、この時代老境に入った50歳でのことであったという。この事実だけでも相当に変わり者である。
そして逸る気持ちを抑えつつ会場をゆっくり移動しながら観て行くとメイン会場にたどり着く。大きな縦長の山水風景が次々と登場する。いわゆる誰もが思い浮かべる玉堂調の力強い水墨画に圧倒され言葉を失っていた。絵の中で木々はざわめき、山々はうねる様に天を突くように伸びあがる。墨の黒と紙の白の単純な構成ではあるが、まるで未知の生き物が会場のところ狭しと蠢いているかのような錯覚すら覚えてしまうほどだった。体中が熱くなって興奮してきているのが解る。ちょうどこのあたりで空腹にもなってきたのでレストランで昼食をとって仕切りなおしてから第二会場を観ることにした。
第二会場からは春琴と秋琴の二人の息子たちの作品がメインとなる。始めは春琴。この人はとても達者な「上手い画家」である。中国画もかなり熱心に学習したようだ。そして何より驚いたのは父親のダイナミズムとは打って変わって画風が繊細であることだった。神経の行き届いた緊張感のある細い描線、綿密に計算された構図、効果的な着彩による山水画、花鳥画、美人画とどれをとっても駄作がなく名品ずくしである。かなり人気のある売れっ子画家だったようで、この春琴が名声を得たことで父、玉堂が自由奔放な生き方と絵画制作ができ、そして名を残すことができたのだとも伝えられている。
息の抜けない春琴の作品が途切れたところで次男の秋琴作品の登場となった。この人は親子で岡山藩を離れた翌年、11歳で会津藩の藩士に取り立てられた。専門は音楽で藩では「雅楽方頭取」なども務めている。そして本格的に絵を描き始めたのは隠居後の80歳を過ぎてからだという。さすがに父、兄と比較すると画力には差があるように思われたが、80歳という年齢を考慮すると、この勢いのある筆致はなかなかのものであるとも思った。小技などはないが骨太で迷いのない筆運びによる味のある山水画が印象に残った。
結局、会場を出たのは予定していた時間をはるかに超えて午後遅くとなってしまったが、かなり充実し満足した時間を過ごすことができた。叶わなかったのだが、今年の「もう一度観てみたい」と思えた数少ない展覧会の一つとなった。画像はトップが玉堂の山水画。下が向かって左から玉堂作品3点、春琴作品3点、秋琴作品2点と千葉市美術館看板、美術館外様、春琴画の玉堂図。(作品画像は全て展覧会図録からの部分複写です)