長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

302. 『父が語った戦争』 第3回 本土決戦

2017-08-14 17:35:21 | 
昭和20年6月10日。父の所属する茨城県の土浦海軍航空隊を襲った米軍機による空襲で部隊の2/3の少年航空兵が戦死。父を含む残りの1/3の飛行兵はしばらく土浦航空隊の焼け跡のわずかに残った兵舎で生活していたが、ここ霞ヶ浦周辺には海軍の施設が集中していたため、その後も硫黄島の基地から飛来した米軍爆撃機、戦闘機による小さな空襲が何度もあった。敵機の爆音がして来ると「敵機来襲~っ!!」という声と共にその場からみんな飛散してパーッと蜘蛛の子を散らすように逃げた。焼け残った兵舎は狙われるのですぐに離れて裏山の中に逃げ込んだり、霞ヶ浦方面の水辺に逃げたりした。
そんな中、戦友数人が軍の所要で国鉄の駅まで使いに行ったのだが、そこでフラッと飛来した米P-51戦闘機1機に襲われた。みな散らばって逃げたが1人の戦友をP-51が執拗に追いかけ始めた。なんとか停車中の貨車の下に潜り込んだが膝から下が隠れず、そこに低空飛行をしてきて“バリバリバリッ”っと機銃掃射された。戦闘機に付いている機銃は戦闘機を打ち落とすための口径の大きな機銃であるからたまらない。銃弾が両ふくらはぎを貫通し、敵機が飛び去った後、皆に貨車下から引き出されたが間に合わずに出血多量で死亡したのだという。まるで遊びのようにやって来ては地上の人を見つけるとこうした攻撃をしてきたようである。この話をしていた父が「他人ごとではなかった、ひょっとすると自分が使いに行っていたかもしれない…」と呟いた。

しばらくして生き残り組のうち半数が滋賀県の琵琶湖に移動となった。ここの水上で特攻艇「震洋・しんよう」という1人乗りの特攻兵器の訓練をするためだ。これは小型のベニヤ板製のモーターボートの船首に爆装し搭乗員が一人乗り込み日本近海にいる駆逐艦や哨戒艇などの小型の敵艦艇に体当たり攻撃を敢行するもので、大戦末期のこの時期には太平洋岸の海岸線の洞窟などに多くの基地があり終戦ギリギリまで出撃していたということだ。それにしてもベニヤ板製のモーターボートである…。父を含むあと半数は土浦の北、石岡という町へ移動することになった。ここで民家に数人が分散し生活が始まった。
「そこではどんな任務が与えられたの?」と尋ねると「町から離れた山の上に造られた平坦地に地上ロケット戦闘機の発射台の建設を行っていた」という答えが返ってきた。「ロケット戦闘機って?特攻兵器の桜花(おうか)のこと」と聞き直すと「いや、それとは違うタイプがもう一つあった…1人乗りの操縦席があったので無人ではないと思う」と言っていた。
「陸軍の部隊も駐屯していて、いっしょになって土木作業を行った。初めのうちは自分たちを海軍の若い下士官だと思っていたらしく、すれ違うとピシッと陸軍式に敬礼をされた。しばらくして少年兵だと解ると、してくれなくなった」と苦笑しながら言っっていた。

ここまで話を聞いて謎が深まった。搭乗する戦闘機がない時期に土浦でのグライダーによる飛行訓練?そして今度はロケット戦闘機?いったい父親たちはどんな作戦に参加する予定だったのだろうか。ここで父たち部隊が置かれていた状況を俯瞰して見るため、父が亡くなってから数か月経ってからネットで調べた大戦末期の関東方面の日本軍の作戦を一部だが取り上げてみることにする(詳しく書くととても長くなるのであくまでも概容ということでご了承、お読みください)。

<日本本土上陸作戦>

太平洋戦争末期、アメリカ、イギリスなどの連合国により開催された「カイロ会談」で劣勢にもかかわらず徹底抗戦を続ける日本軍に対して「日本の早期無条件降伏のためには本土上陸も必要」という認識が話された。1945年2月には作戦の骨子がほぼ完成。上陸作戦を中心になり実行するアメリカ、イギリス、オーストラリア軍をはじめとするイギリス連邦軍に了承されることとなった。
この作戦は『ダウンフォール作戦:Operation Downfall』 と命名される。この計画は大きく2つに分かれており、1つは1945年11月に計画された『オリンピック作戦』ともう1つは1946年3月に計画された『コロネット作戦』だった。前者は九州南部への上陸作戦で航空基地を奪い、ここから本州、特に関東地方の日本軍基地を英空軍の重爆撃機により攻撃する作戦だった。後者はこの九州からの集中爆撃後、関東の神奈川県湘南海岸と千葉県の九十九里浜、茨城県の鹿島灘から米海兵隊を中心に大規模な上陸作戦を展開、首都東京を挟撃し短期間で皇居まで迫り無条件降伏を迫るというものだった。
その連合軍の陸海空の動員される兵力は第二次大戦史上、最大規模と言われ欧州のノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ数が予定されていた。そして投入される米英軍の兵器も最新鋭のものが、この作戦のために開発製造されていたのだということだ。さらに驚くのは広島、長崎に続く新潟などの都市への原子爆弾の投下。想像を絶する激戦が予想されるため連合国軍側も自分たちの損害を減らすという理由からヨーロッパ戦線では第一次大戦後タブーとなっていた化学兵器、生物兵器の使用も計画されていた。その内容はマスタードガス、サリンなどの神経毒ガス攻撃や食料となる農作物を殲滅し兵糧攻めにする枯葉剤(ベトナム戦争で使用)の散布まで検討されていたのだという。

これに対して日本側は大本営が提唱する「一億玉砕・いちおくぎょくさい」のプロパガンダ通り、『決号作戦・けつごうさくせん』と称し、本土に残る約500万の陸海軍以外に男子は15歳~60歳、女子は17歳~40歳までの民間人で組織した国民兵2600万人を投入するとされる計画がたてられていた。連合軍同様、この戦のためにさまざまな新兵器も陸海軍で考案され設計、製造が進められていた。そして茨城の鹿島灘と千葉の九十九里浜には攻撃陣地が軍部の指導の下、築城され始めていた。あくまで専用の攻撃陣地であり防御陣地の築城は行われなかった。つまり「お国のために死んで玉砕するまで」ということなのだろう。そして航空兵力も父親たち「余乗員」を含む特攻攻撃が中心に考えられていたのである。

史上最大の上陸作戦が遂行されれば、当然のことながら両軍共に甚大な被害が生じたことだろう。連合軍、日本軍共、独自に損害を予測し数値は異なっていたようだが、米英軍は第二次世界大戦の中で最大数、日本側は全軍が壊滅するほどの被害数という点では一致している。数だけではなく原子爆弾の継続使用や化学兵器の使用などにより軍人だけではなく民間人に多大なる犠牲が出て日本列島全体が焦土と化したことは間違いないだろう。
それにしてもこうした狂信的で無謀としか表現しようのない作戦が存在したという事実を現代の日本人のどれだけの人が知っているだろうか。特に40代より若い世代は全く知らないのではないだろうか。


この続きはさらに次回に続きます。次回が最終回となる予定です。

画像はトップが兵舎内で戦友と写された写真(前列、向かって左から3番目の小柄で笑っているのが父)。下が部隊内での訓練のようす3カット、みんなあどけない笑顔をした甲子園球児ぐらいの少年たちである。


      




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1 コメント

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ありがとうございました。 (uccello)
2017-08-16 20:14:12
ブロガーのみなさん、いつもマイブログにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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