長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

301. 『父が語った戦争』 第2回 土浦海軍航空隊

2017-08-11 17:15:26 | 
昭和20年の3月、父たち若い飛行兵を乗せた軍用列車が奈良からノンストップで茨城の土浦に到着する。以後、父親の部隊は土浦海軍航空隊所属となった。奈良航空隊で基礎訓練を終え、これからいよいよ実戦の訓練を行うためである。

翌日の朝、飛行場に集まると、そこには想像していたゼロ戦や紫電改の姿はなく「赤トンボ(練習機)」とグライダー、そして本物のように色が塗られた擬装の囮用木製機だけが並んでいた。この年の3月に硫黄島の守備軍が玉砕し、本土の大都市への大空襲が続き、4月から沖縄戦が始まっていた。こうした状況で航空兵力の多くが本土に近づく決戦場に迎撃機や特攻隊機として集結していたため父親たちから下の予科練16期生(16才~20才)までのパイロットにはもはや搭乗すべき戦闘機がなくなっていた。そしてこの訓練は終えたが空を飛べない戦闘員たちは「余乗員・よじょういん」などと呼ばれ、海軍上層部はこの少年兵たちの扱いを今後どのようにするか検討を重ねていた。「余乗員」いやな響きを持った言葉である。偶然だが幻想エカキの大先輩のT.Iさんは予科練で父の一期上にあたり土浦の近くの霞ヶ浦航空隊でゼロ戦に乗り毎日、湖上に浮かべられた模型の敵艦に向け特攻の急降下訓練を行っていたと伺っている。

「そんな航空隊でいったい何の訓練をしたの?」と尋ねると「毎日のようにグライダーに乗って飛行訓練をしていた」と答えが返ってきた。何か腑に落ちない。どうして搭乗する戦闘機もないのにグライダーの訓練などしていたのだろうか?父親たちはあまり疑問を持たずに上官に言われるがまま厳しい訓練を続けていたのだということだった。

そうした中、昭和20年6月、この頃になると占領された日本近海のサイパン島や硫黄島から飛来する米軍の爆撃機や戦闘機による空襲が太平洋岸を中心に頻繁になってきていた。そうした中で10日の朝、土浦航空隊に悲劇が起こった。
この日、父親は数人の戦友たちと兵舎の見回り当番を命じられていた。空襲警報が発令され"ゴォーッ、ゴォーッ" と空を引き裂くような恐ろしい爆音と共に米軍機の大きな編隊が近づいてきた。「危ないから早く防空壕の中へ入れっ!!」と上官から言われていたが責任からか父を含め何人かは兵舎に残っていた。
そうこうしているうちに防空壕が集中的に狙われた。"ドーン、ドーン"と地響きのように爆撃の音が聞こえてくる。どのくらいの時間だったのだろうか。長くも短くも思えた。しばらくして飛行機の爆音が遠ざかると「残っている者はすぐに助けに行け~っ!!」と上官の命令がありバラバラと兵舎の外に出て走って裏山にある防空壕へと向かった。20分ほどで現場に到着すると防空壕の場所がどこにあるのか解らないほど、派手に潰されていた。

皆で協力してスコップなどで瓦礫や覆いかぶさった土の除去作業を進めて行く。濠の入り口から少し入ったところで一人の戦友がキチンと椅子に座ったまま死んでいた。肘から上は真っ黒に焼け焦げていて誰か判断はし難い姿なのだが膝の上に書類の入った鞄をしっかりと両手で抱えている。肘から下はきれいに焼け残っているのである。この戦友は普段からとてもまじめで几帳面な優等生で、その性格を上官に認められ重要書類を扱う係りとされていた人物であることが解った。コの字に曲がった防空壕の中を進んで行くと、真上に爆弾が落下したため床にかなりの衝撃で叩き付けられたのだろう。顔が真っ赤に倍に膨れ上がった戦友3人が倒れて死んでいたのが見つかった。さらに進むとコの字のちょうどコーナーで柱にしがみついていた二人の戦友に遭遇した。運よく助かったのである。そしてその先では多くの焼け焦げた戦友の遺体と遭遇することになる。何人かの戦友はまるで、きれいに焼かれた鶏肉のような変わり果てた姿で見つかった。まさにこの世の「生き地獄」そのものである。
16~17才と言えば、まだ幼さが残る少年たちである。昨日まで訓練の合間にお国自慢や家族自慢、そして恋愛の話などをして笑い合っていた仲間たちのこの姿を生き残った者たちはどのように受け止めたのだろうか。

それから生存者の4人が1組となり、板に遺体を乗せて山上にある平坦地まで運ぶように命令された。これは本当につらく悲しい時間であった。そして喘ぎながら山上の広い場所に着くとそこは遺体で溢れかえっていた。負傷をしたが運よく一命を取り留めた人たちは軍の病院が爆撃を受けたため民間の病院まで運ばれていった。
作業が一段落し下に降りて休んでいると周囲は暗くなリ始めていたが山上で遺体を焼く炎が赤々と見えて黒い煙がいつまでも高く大きく上がっていたのだという。兵舎も爆撃による火災により一部を残してほぼ全焼に近い状態となっていた。この大爆撃で若い少年航空兵の182名が戦死したと記録に残されている。

ここまで話すと父親がぽつりと言った。「だけど、アメリカさんもけっこう死んだよ」「どういう意味?」と聞き返すと「P-51(米戦闘機)が滑走路に置いた偽の囮用飛行機を狙って編隊で低空に"ダーッ"と降りてきて機銃掃射してくると地面スレスレに土嚢と擬装網でカムフラージュしておいた友軍の対空機関砲が一斉に"バリバリバリ"っと撃ちまくるんだ。そして燃料タンクに命中し"パッ"と一瞬辺りが真っ白になったかと思うと木端微塵に消えてしまう。人間の姿なんて跡形もなくなるんだぞ」と静かに答えた。そして「これが戦争なんだよ…」とも続けるのだった。

この爆撃で大きな損害を受けた土浦海軍航空隊の内、1/3ほどとなった生き残り組はわずかに焼け残った建物でしばらくの間は寝起きを共にするがその後、半分は滋賀県の琵琶湖に、そして父親を含む半分は土浦の北にある石岡の町へと移動し終戦までの最後の任務に就くこととなった。

この続きは次回へと続きます。

画像はトップが奈良航空隊の庭で撮影された予科練制服姿の父。入隊の時よりも訓練によりガッシリとした体形になっている。下が土浦航空隊での集合写真、バックに赤トンボといわれる練習機が見える。




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1 コメント

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ありがとうございました。 (uccello)
2017-08-16 20:12:48
ブロガーの皆さん、いつもマイブログにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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