今月の28日は昨年、88才で他界した父の一周忌を迎える。法要は23日の快晴の日、前倒しであるが菩提寺となっていただいている寺院で父の遺言どおり家族だけで慎ましく行った。このブログに父の人生について書こう書こうと思いながらも、なかなか書くことができずに一年が経ってしまった。
ブログのタイトルに使用した『人生は風船の如し』という言葉は生前の父が20代後半から30才ぐらいまでの母と結婚する前にまとめた写真アルバムに書き込まれているものである。その写真は東京の本所生まれで下町育ちの父が10才ぐらいの時のものだろうか、写真と絵画が得意だった兄弟(僕の伯父)が撮影したもので、このアルバムの中で僕が一番好きなカットである。時代は日本が戦争への道を突き進んでいたころである。下町の陽光の中、少年が駄菓子屋で買ってきた紙風船一つで無邪気に遊んでいる。笑顔がとてもいい。この後、人生観を大きく変えてしまった出来事が起こることを未だ知らない。
昭和3年生れの父は軍国少年であった。中学生の頃は太平洋戦争の真っただ中である。中学校を卒業すると同時に「海軍飛行予科練習生」略して予科練(よかれん)に少年飛行兵となるために志願入隊する。「ゼロ戦に乗って敵機から日本の国や家族を守るんだ」と血気さかんだったようだ。だが戦局は著しく悪い時期、いわゆる特攻隊の生き残り組となった。このことが父の人生の中で人の死生観というものを決定づけてしまったように思う。
男六人兄弟の末っ子だった父は戦中戦後のドサクサで3人の兄を失った。物資の少ない中でもあり、そのうちの二人は医療ミスが原因だったようである。そしてB29の大群による東京大空襲、大切な人たちを失った。海軍入隊後は内地にいた所属する航空隊が大きな空襲に遭い大勢の若い戦友たちを失った。この時代の多くの日本人がそうであったように「死」というものが隣り合わせにいた青春時代であったと思う。
僕が二十歳ぐらいまで家で毎晩酒を飲むと家族の前で「自分は本来、ここに生きているべき人間ではない」というのが口癖で、自ら「死にそびれ」を自称していた。このことをあまり母が嫌がるので、その後は語らなくなった。
その父が、亡くなる一年ぐらい前から同居していた僕ら夫婦や孫娘たちの前で戦争中の軍隊生活や実際に起こった事を再び詳しく話し始めたのである。体調もかなり悪くなっていく中、あまり詳しく話すので「これは」と思い僕はメモをとったりボイス・レコーダーに録音したりしたのだった。最後にこれからの人間に伝えておかなければならないと思ったのだろう。この戦争時代の事と長島の家のルーツの二つの話題に絞り語り続けた。この内容についてはとても長くなるのでこの後のブログに投稿しようと思っている。
そして亡くなる半年ぐらい前、自室にいた父が、わざわざ僕を手招きし語ったことがあった。「最近、1人で天井をじーっと眺めていると悟りのようなことを考えるんだよ…」と父。「悟りなんて修行を積んだ僧侶でもなかなか得られない境地だよ」と返すと「人間は皆、一本の紐のようなものだと思うんだ。長い紐もあれば短い紐もある。途中でねじれた紐もあれば曲がった紐もある。人の目線からは違うように見えるけど、真上から俯瞰して見れば同じように小さな1つの点でしかない。今までの人生で若くして死んでいった友人もいれば、有名大学に入ってエリートコースを歩んだ同級生もいるけれど、人生終わってしまえばすべて同じなんだよ…なにも変わることなどない」と、こう言うのである。ふだん父は決して哲学的なことや宗教的なことを語るような人間ではない。今、思い起こして見ると、この時80才以上まで生きた一つの境地を語ったのだと思う。父の「悟り」である。
『人生は風船の如し』若き日に父がアルバムに記したこの言葉の意味がようやく少し理解できた気がしている。そして80代にして辿り着いた地点の境地が『人生は一本の紐の如し』なのかも知れない。
それから父は友人や家族にも有名な「晴れ男」だった。友人にはよく「長島が何かしようとする時、必ず晴れた」と言われていた。父が他界したその日も関東地方がちょうど梅雨明けとなった。病院で死亡後の手続きを終え連れ合いと二人、外に出るとコバルトブルーの空が広がっていた。そして雲間にキラっと反射したかと思うと、一機のゼロ戦が飛んで行くのが僕には見えた。「あ、あれゼロ戦だろ!?」と思わず叫ぶと、傍にいた連れ合いが「そうだったのかも知れないね」と言った。「それとも幻影かなぁ…」いや、きっと父親は真っ直ぐに向こう側で待っている戦友の元に飛び立ったに違いない。そして到着すると開口一番「こんなに長生きしてすまない」と照れ隠しの笑顔で言ったのだろう。
画像はトップが父の少年時代の写真。下が同じく生家近くで家族と子供時代に撮影した写真。
ブログのタイトルに使用した『人生は風船の如し』という言葉は生前の父が20代後半から30才ぐらいまでの母と結婚する前にまとめた写真アルバムに書き込まれているものである。その写真は東京の本所生まれで下町育ちの父が10才ぐらいの時のものだろうか、写真と絵画が得意だった兄弟(僕の伯父)が撮影したもので、このアルバムの中で僕が一番好きなカットである。時代は日本が戦争への道を突き進んでいたころである。下町の陽光の中、少年が駄菓子屋で買ってきた紙風船一つで無邪気に遊んでいる。笑顔がとてもいい。この後、人生観を大きく変えてしまった出来事が起こることを未だ知らない。
昭和3年生れの父は軍国少年であった。中学生の頃は太平洋戦争の真っただ中である。中学校を卒業すると同時に「海軍飛行予科練習生」略して予科練(よかれん)に少年飛行兵となるために志願入隊する。「ゼロ戦に乗って敵機から日本の国や家族を守るんだ」と血気さかんだったようだ。だが戦局は著しく悪い時期、いわゆる特攻隊の生き残り組となった。このことが父の人生の中で人の死生観というものを決定づけてしまったように思う。
男六人兄弟の末っ子だった父は戦中戦後のドサクサで3人の兄を失った。物資の少ない中でもあり、そのうちの二人は医療ミスが原因だったようである。そしてB29の大群による東京大空襲、大切な人たちを失った。海軍入隊後は内地にいた所属する航空隊が大きな空襲に遭い大勢の若い戦友たちを失った。この時代の多くの日本人がそうであったように「死」というものが隣り合わせにいた青春時代であったと思う。
僕が二十歳ぐらいまで家で毎晩酒を飲むと家族の前で「自分は本来、ここに生きているべき人間ではない」というのが口癖で、自ら「死にそびれ」を自称していた。このことをあまり母が嫌がるので、その後は語らなくなった。
その父が、亡くなる一年ぐらい前から同居していた僕ら夫婦や孫娘たちの前で戦争中の軍隊生活や実際に起こった事を再び詳しく話し始めたのである。体調もかなり悪くなっていく中、あまり詳しく話すので「これは」と思い僕はメモをとったりボイス・レコーダーに録音したりしたのだった。最後にこれからの人間に伝えておかなければならないと思ったのだろう。この戦争時代の事と長島の家のルーツの二つの話題に絞り語り続けた。この内容についてはとても長くなるのでこの後のブログに投稿しようと思っている。
そして亡くなる半年ぐらい前、自室にいた父が、わざわざ僕を手招きし語ったことがあった。「最近、1人で天井をじーっと眺めていると悟りのようなことを考えるんだよ…」と父。「悟りなんて修行を積んだ僧侶でもなかなか得られない境地だよ」と返すと「人間は皆、一本の紐のようなものだと思うんだ。長い紐もあれば短い紐もある。途中でねじれた紐もあれば曲がった紐もある。人の目線からは違うように見えるけど、真上から俯瞰して見れば同じように小さな1つの点でしかない。今までの人生で若くして死んでいった友人もいれば、有名大学に入ってエリートコースを歩んだ同級生もいるけれど、人生終わってしまえばすべて同じなんだよ…なにも変わることなどない」と、こう言うのである。ふだん父は決して哲学的なことや宗教的なことを語るような人間ではない。今、思い起こして見ると、この時80才以上まで生きた一つの境地を語ったのだと思う。父の「悟り」である。
『人生は風船の如し』若き日に父がアルバムに記したこの言葉の意味がようやく少し理解できた気がしている。そして80代にして辿り着いた地点の境地が『人生は一本の紐の如し』なのかも知れない。
それから父は友人や家族にも有名な「晴れ男」だった。友人にはよく「長島が何かしようとする時、必ず晴れた」と言われていた。父が他界したその日も関東地方がちょうど梅雨明けとなった。病院で死亡後の手続きを終え連れ合いと二人、外に出るとコバルトブルーの空が広がっていた。そして雲間にキラっと反射したかと思うと、一機のゼロ戦が飛んで行くのが僕には見えた。「あ、あれゼロ戦だろ!?」と思わず叫ぶと、傍にいた連れ合いが「そうだったのかも知れないね」と言った。「それとも幻影かなぁ…」いや、きっと父親は真っ直ぐに向こう側で待っている戦友の元に飛び立ったに違いない。そして到着すると開口一番「こんなに長生きしてすまない」と照れ隠しの笑顔で言ったのだろう。
画像はトップが父の少年時代の写真。下が同じく生家近くで家族と子供時代に撮影した写真。