ブログやFacebookなどSNSの投稿にソメイヨシノの花の画像が増えてきた。東京ではそろそろ散り始めているのかもしれないが、工房のあるここ千葉北東部ではまだ5分~6分咲きぐらいである。今月、10日は5年前に他界した母親の祥月命日である。菩提寺となっていただいた寺院のご住職に戒名をつけていただいたのだが、生前には桜の花がとても好きだったこと、桜の花が咲く頃に家族が故人を思い出すことができるようにと名前の他に「桜」という文字と、合わせて和歌を詠んだり書いたりするのが好きだったことから「詠」の文字を入れていただいた。
その年はちょうど東日本大震災の年で3月11日には病院に入院していた母の容体が危険な時であり、ベッドに横たわる上半身には点滴などのため何本ものチューヴが装着されているような状態だった。珍しく家族全員が家にいたのだが大きな地震の揺れが治まり、しばらくしてから安否を確認する連絡を入れたことをはっきりと憶えている。母親の父方の故郷は福島県のいわき市で住む地域が原発に近く親類縁者はすべて避難所に移らなければならなかった。それからほぼ一か月後に母は病院で亡くなったのだが毎年、3.11から桜の開花のこの季節にはその頃のことがはっきりと蘇ってくる。
母親の死後、一周忌が過ぎたころから衣類や貴重品など主だった遺品は整理し兄弟などに「形見分け」を済ませたのだが、書類やアルバム、細かい思い出の小物などは2~3年は手をつける気持ちが起きなかった。ようやく最近になって少しずつ整理し始めた中から古いモノクロで「見合い写真」と思われる写真が出てきた。それは父の「見合い写真」とペアに大切に保存されていて台紙には母の字で昭和32年2月11日と書かれていた。24才のポートレートである。結婚する前であるし、当時としては、おしゃれなブラウスで着飾っており、よく見ると写真館のエンボスが押されているので見合いのために撮影されたとしてまず間違いないだろう。
母は女学校時代から勉強をするのが大好きで才女で文学少女だったが、家庭の事情から一家の柱として働かねばならず大学進学をあきらめ銀行に勤めていた。ちょうどその頃のことだ。その母が、どうして予科練(よかれん・海軍少年飛行兵)出身で自ら「死にそびれ」を自称し、人間の種類の違う父と結婚したのか?生前に尋ねたことがあった。すると「自分の周囲にはいないタイプで…予科練帰りというところにとても興味を持ち魅かれた」のだと言っていた。まぁ、この時の決断がなければ、今ここに僕は存在しないのである。
文学ならばフランス文学、中でもロマン・ロランは晩年まで何度も読み返していた。それから日本の古典文学、和歌は日常暗誦し短冊に書いたりして部屋に飾るほど好きだった。音楽はクラシックでロマン派からチャイコフスキー、シベリウスなど。シベリウスの交響詩<フィンランディア>の題名を懐かしそうに思い出しては口にしていたので何か特別な想い出があったのだろう。ひょっとして父とは別のボーイフレンドとコンサート会場で聴いたのかもしれない。その訳を聞きそびれてしまった。絵は描かなかったが、とにかく美しいものが好きだった。そして祖母の影響だが神仏には熱い思いのある人で特定の団体や宗派には所属していなかったが足腰の元気な頃は父と二人で関東周辺の観音霊場巡りの旅をしていた。この母の文科系的な嗜好のDNAは自分の体内にも確実に流れていると感じている。
思い出話を綴れば際限はない。最期に平安時代末期の孤高の歌人で僧侶である西行の和歌「望月のころ」を母に捧げる。
・願わくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月のころ (わたしの望みは咲きほこる桜の下、春に死ぬこと 二月、釈迦の亡くなったあの満月のころに)
桜をこよなく愛し、仏陀を強く慕うあまり「できることなら満月の桜の下で仏陀が入滅した2月25日のころに死にたい」と望んでいた西行が歌人として活躍していたころ詠んだ歌で都でとても評判になった。1190年3月31日の午後2時頃、その願いのとおりに河内の弘川寺で入滅したという知らせに都の人々は異様な興奮につつまれたと伝えられている。
今、ここに母がいたら言われることは、おおよそ想像がつく。「人に無断でそんな写真を引っ張り出してきて…それから、そんな有名な歌はお前のヘタクソな解説を読まなくても知っていますよ。それよりも他人様に少しでも喜んでもらえる絵が描けるようになったの?」
来年は七回忌。外に出た娘たちにも声をかけ家族そろって母の想い出を語り、静かに法事をする予定でいる。トップ画像は見つかった母の「お見合い写真」(セピア調画像処理を施した)。下が昨春撮影した工房の近くの公園のソメイヨシノ、6カット。
お母様についての投稿に、今日、気がつきました。素敵なお母様だったのですね。長島さんのお人柄は、お母様譲りなのでしょう。
暖かな気持ちになりましたU+2734