僕は小さな頃から夕日が好きです。
僕の家は山の際にあるので、冬では15時頃になると陽が陰ってしまいます。
家から夕焼けが見えることはありませんでした。
学校で遅くまで遊んだときや、友達と遅くまで遊んだときには、何時も綺麗な夕日を見て嬉しくなったのを覚えています。
今でもそうで、綺麗な夕日を見たときには感動しますし何か徳した気分になります。
そんな何気ない日常が営まれるまち。
毎日が安心して暮らしていける地域にしていけるように力を入れなければならないと思ってい
ます。人々が地域で繋がりお互いがお互いを思いやり真実を語り合ってそれぞれの思いを共感
出来るように。
そして、みんなで感動出来るように。
日々の小さな幸せの積み重ねがこのまちを幸せに導いてくれると思う。
特別なリーダーなんか必要は無い。誠意を持って、真実を語り人々の半歩前をいくリーダーがこのま
ちには必要ではないだろうか。
今日も、初詣の場所で皆さんのおおらかな笑顔が方々で見ることが出来た。
赤ちゃんの声を聞いてとても幸せになれた。
そんな小さな幸せを共感出来るようなまちを取り戻さなければならない。
今、このまちは後戻り出来ないところまできているのではないかと思う。
大きな過ちをこのまちに残さないように。
少しでも早いほうがいい。
それらを妨害する人々には断固として立ち向かわなければならないと思う。
子ども達の声が響き渡るまちにしていくために。
日々の思いを徒然なるままに書きました。
私の思いです。
皆様にとって希望、感動、共感が持てる年でありますように。
因みに僕は今年「年男」の48歳「巳年」です。
力一杯全力で頑張っていきたいと思います。
「一市民」改め「市民の声」とします。
今年もよろしくお願いします。
さて、私も夕景や朝日を眺めるには格別の感慨があります。
子どものころ、ひとり、自宅近くの高台に上り、しんと冷えた澄み切った空気の中で、明けゆく空と少しづつ光に照らされる町を眺めながら、ご来光を眺め、新春を迎えたことを思い出します。
同じ場所で、暮れゆく空を眺め、家のひとつひとつに明かり灯る景色を眺めることも好きでした。
普段、自分が暮らす町を少し離れた所から見る、そんな経験は誰の心にも、何か特別な思いをもたらすことでしょう。
人は、自分の生まれ育った街を愛するものなのかもしれません。
今の三木市の姿について悩むところがあったり、あきらめの気持ちを抱くこともあります。
しかし、私もまた、この美しいまちを愛し、高台からみつけた家々がいつも温かな光で灯されるように願い、自分自身もその光の下のひとりでありたいと切に願います。
小さな幸せがいつも皆様のそばにありますように。
数日前の議員のブログの公開で議論をされていましたが、例え地方議員といえども公人なので情報の公開は必須事項と思います。私の知る限りでは大西議員・泉議員・頻度は少ないですが共産党の2名ではないかと思います。
ご指摘のありました泉議員は一方的の情報公開で民意を閉ざしています。これも不可思議な行為と言わざるを得ません。まだお若いので民意に対して耳を傾けるのが公人の責務と感じます。
今年も昨年に引き続き宜しくお願い申しあげます。
夕日や朝日、そして「まち」の風景大事なものだと思います。
そこには、短長の時間に関係なく自分の歴史が詰まっていますもんね。
それがひいては、家族の歴史や友人との歴史になりそのまちに対する思いに変わるのかも知れません。
小さな幸せをより多くの皆様と共感出来るまちに少しでも近づけていきたいと思います。
仰ることはよく理解出来ます。
私も公人としての立場で意思表明をしており、コメントも誹謗中傷以外は真摯に受け取らなければいけないと思いますし、そうしています。
本来、仰るように議論をするためには民意を閉ざすことなくオープンにしなければ公人としての意味は無いかと思います。
新党の党首の市長も1期目のはじめはブログもしていましたが、それも途中で終わりました。市長室についても閉ざされ、日々の市長の行動も分かりません。その党のボスの姿勢が党員に波及するのでしょうか。
今後ともオープンな活動を行っていきたいと思いますので宜しくお願い申しあげます。
昨年19位、予選会通過からの下剋上優勝、感動的でした。前評判の良かった大学が強風による悪影響を受け、次々倒れて行く中で、目立つエース、派手な活躍はなくとも全員がきっちりと自分の持ち場で自分の仕事を全うしての優勝獲得。心に熱いものが込み上げます。
さて、今年の日体大で注目が集まるのはやはり「3年生主将」、「西脇工高の渡辺前監督」起用ではないでしょうか。
持ちタイムや選手層をみれば、日体大の優勝は予想し得なかったもので、この1年間、再起し、生まれ変わることを誓った日体大の生徒たちが、どんな科学的なトレーニングを積んだのかと興味を持って調べたところ、実は日体大のトレーニング自体はもともと合理的なもので、渡辺監督がまず力を入れたのは「夜10時半の就寝時間」、「早朝からのグラウンド掃除」の徹底といったものだったそうです。
また、選手をどのように起用し、育成するかについても、渡辺監督の目は確かでした。別府監督は、このことについて、「一番変わったのは、選手たちではなく、私自身だったかもしれない。」と語っています。
さて、みなさん、「市長なんて誰がなっても同じ」とお思いになりますか?
三木市が北播地域で最も人口を流出させている、市民病院を倒産に追い込み、統合病院を小野市に持っていかれてしまったのも、もともと三木市の条件が良くないからで、三木市の市長さんはよくやっておられる、と市民の方々は評価しておられるのでしょうか。
私は、チームを勝利に導かない監督は、チームには必要ないと思います。お金にあかせてエース選手をかき集めても、その力を上手く育成し、活用できない監督は要りません。今の三木市は、お金をばらまいて看護学科や工場を誘致してはいますが、それだけです。
「勝てない監督はいりません。」
監督の仕事は、選手を育成し、適材適所に起用し、たとえ万全の布陣でなくとも、チームを勝利に導く事です。会社であれば社長や部長がこれに当たり、うまくこの効果を活かし続ける事ができるチームが、「長い成功」を勝ち取っていくことができるのです。
群雄割拠の様を呈してきた箱根駅伝で、来年も日大が同じ成績を残せるかは今からの日体大の、他校の鍛錬にかかってきます。選手たちには申し訳ないですが、ますます面白くなります。
日大の別府監督の言葉を再掲します。
「渡辺監督による指導を受けて、一番変わったのは、選手たちではなく、私自身だったかもしれない。」
人は、いつでも、気づいた時から変われるものであるし、それをしないのは本人の怠惰です。この数年、三木市が味わった「負け試合の数々」は正しく検証され、それは今からの三木市に活かされていかなければなりません。「勝てない監督」がどうしても監督を続けたいならば、自分自身が一番変わらなければなりません。
負けの戦局を必死で隠す、戦中放送のような広報はもうやめましょう。
私たちが欲しいのは、「三木市を勝利に導く」=「真に三木市を繁栄させていける」監督です。自分の保身のために「財政危機宣言」などという芝居を打って、三木市から活気をそいでいく監督ではありません。
頂点に立つ者が変われば、おのずと組織は変わっていくものです。
私は今回の箱根駅伝をみて、大きな感動とともに、「監督」の重みを再度実感しました。
みなさんはどのようにご覧になりましたか?
※神聖なスポーツを政治の比喩に使って申し訳ありません。駅伝に参加された皆様の汗と涙がかけがえのないものであることに敬意を払い、皆様の活躍をお祈りしております。
まだ上手く説明できるほどではありませんが、書いてみます。
この文章だけで判断すると、どうもお客様向けな印象を受けます。
人は誰もが幸も不幸もある人生というものにチャレンジしなければなりません。
政治にしか出来ない社会全体の最低限の保障は必要だと思いますが、細かいところはそれぞれの人がやらなければなりません。
幸福ばかりの波の無い人生では小さな幸せも感じなくなり、鈍感になってしまいます。
町に活力があれば喧嘩も増える。
けどその方が人生として波があり、幸も不幸もあるというのが分かり、強く生きることが出来ます。
今は全体的な質の低下を起こしている時代ですが、政治は常に完璧でなくても良いと思います。
自立していない大衆は、いい人の保守政治に対して次第に揚げ足取りをするようになり、政治家が全てを背負うような発言をする分、全て政治家のせいにしようとしていきます。
これでは改善には繋がらないと思うのです。
三木市という駄目な地域で大西さんの様な方がいる事は救いではあるのですが、三木市の質にはもったいなくて、だから現実が反映されていない面もあるかと思います。
民主主義政治は、国民の質以上の事は出来ないはずです。
だから三木市民の自立による質の向上が必要ではありますが、その為に必要な愛着を現す愛郷心もなく、その心を持てる環境もなく、諦めるか捨てるかになってるかと思います。
まだ何も開発されていない田園風景ばかりの方が、夕日や人などに対して愛郷心を持てるほどでしょう。
アフリカで支援を受け続けている人達は、今ではその支援が無ければ生きていけないように慣れてしまってます。
自立のための支援であれば良いのですが、むしろ飼育されているだけになってます。
今の日本国民、三木市民もそうなってるのではないかと思っています。
今ある力を強めるためにも、近隣の市町村や兵庫県全体などで、同じ志を持った地方議員との連携を強めてみてはどうかと思います。
東京荒川区議の小坂英二という方は、色々な面で全国の地方議員の方と連携をとっています。
保守系の政治家は、各自治体に多くても1人か2人しかいないそうです。
人々は過度な安心よりも活力を求めていると思います。