豊臣秀吉が築城した大阪城では 秀吉が亡くなり、大坂冬の陣で 勝利した家康の
との講和で あっちこっちを埋め立て 脆弱になった大阪城、1615年(元和元年)
の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日 徳川軍に追い詰められた 秀頼とその母、淀殿が
山里丸(天守閣北側)の櫓に潜み、自害したと多くの記録が伝えている。
そのことにちなんで、平成9年(1997年)に 山里丸の一角に 大阪市の手により
この碑が建てられたそうです。
このような社もあります。
淀殿とともに殉死した32名の忠魂の菩薩像が
天守閣へ向かう坂道から見えました。
台風の影響で多くの木が倒れ 見通しが良い 私も気がついた。
初見でした(-_-;)
有志の方によるものでは・・・・このようなこともあるので、
大阪市が平成9年に記念碑を建立したのでは・・・・・?
すぐ近くには こんな石垣もあります。石垣に穴が開いてます。
昭和20年のアメリカ軍による無差別攻撃の機銃掃射痕です。角が吹っ飛んでますね
天守閣への爆弾投下は無かったようですが、石垣への機銃掃射、統率の執れていない
兵士によるものでは、天守閣東側の砲兵工廠は、爆撃により死者多数の 建物の残骸は
昭和44年?ごろまで放置されてました。
大阪城名物に 石垣に埋め込まれた人面石(じんめんいし)がちょっと有名ですね 観光客へも
御座船から見やすい?で 案内されてます。
モノトーンで見てみると ほぼ中央の丸い石が 人の顔に見えますでしょうか
この場所は天守閣から東北に当たり鬼門になるので このような石を置いたとか
・・・・・真意のほどは?
しかし、もっともらしいですね(^-^)
アップすると
あまり大きくしない方がよかったかな(-_-;)
観光客に大もての御座船
3艘でフル回転で~す。
極楽橋からの天守閣
観光客が好んで撮影するアングル 天守閣北西から
江戸時代末期まで存在していた 本丸東側諸櫓
これは大阪城天守閣所蔵のもので、城内二の丸の南東、雁木坂の下りぎわ付近から北方向を
望んだもの。
本丸東側の石垣上に建つ4棟の内、いちばん南の櫓をのぞく3棟の櫓が一枚に収まっていて
迫力がある。
手前は武具奉行が管理し、徳川家康の馬印が納められた「馬印(うまじるし)櫓(やぐら)」、
中央は鉄砲奉行が管理する「月見櫓」、奥は蔵奉行が管理する「糒櫓(ほしいいやぐら)」である。
建物はいずれも戊辰戦争の大火で焼失した。
石垣は城内で最も高く、馬印櫓付近の石垣は根石(基礎)から約34メートルに達する。
惜しいですね・・・・
内堀東側 左側の石垣の上に並んでました。二つ目の角部から写ってます。
一番手前は写ってない。
写っている角度から判断すすると もっと左から撮ると角度が合いそうですね
雁木坂を上り切ったあたりからかもわかりませんね。
大阪城シリーズ これにて一旦終了です。ほかにも面白い話がありそうなので
ぼちぼちアップしようかな
最後までご覧いただきありがとうございます。