akikoの「活動」徒然記

活動弁士佐々木亜希子の身の周りの出来事やふと感じたこと

水俣・和光大学展

2006-09-16 | Weblog
水俣・和光大学展へ行ってきました。
4月の日比谷公会堂での水俣フォーラムも強烈でしたが、今回も、展示物や映像が、憤りと反省を物凄い勢いで迫ってくるものでした。日常に舞い戻ると何喰わぬ顔で過ごす自分と向き合い。悔しさ、腹立たしさ、情けなさ、虚しさ。そして焦り。

私たちは高度成長期に、便利さと豊かさを求めて、木の文化をプラスチックの文化に変えてしまいました。
便利になりました。豊かになりました。
おそらく誰も、その恩恵を享受していない人はいません。
でもその影で切り捨てられてきた人々や場所があったこと、隠蔽された事実が認められるまでの長い年月と闘争、今後の山積みの課題などを考えると、とても苦しくなります。

水俣と同じような事は、おそらく今も、私たちの目に見えないところにたくさんあります。
シカタガナカッタ。ドウシヨウモナイ。と片付けるのは怖すぎます。
なぜこうなってしまったのか。何が間違っていたのか。どうすればよかったのか。
これからどうすべきなのか。国は。企業は。患者は(認定、非認定)。患者以外の皆は。

誰もが患者になりうるのです。奇形の魚なんていくらでも口にしていますし、アスベスト問題やポストハ-ベストしかり、私たちの体を蝕むものが日常にはあふれていて、原因もわからぬまま病気になっているかもしれません。
人体に、あるいは自然環境に、悪いとわかっていても疾走し続ける社会や経済の仕組みはなんなのでしょう。個々人としては善良な人も、大きな組織のある立場に立つと、自らの立場や正義を脅かすものを遮二無二切り捨ててしまう。

大規模な公共事業もそう
莫大なお金を注いだ大きな事業ほど、非や失敗を認め、後戻りするのが難しい。
でも、いろんな弊害が見え、支障が出て、公共の不利益の方が大きい馬鹿な事業だとわかったら、早い段階で、見直す、人道的な秤にかける、止める、謝る、改めるー
方向転換の勇気とエネルギーが必要な時期に来ている気がします

今、自然環境は地球規模で脅威的に破壊されていて、それは皆、人間の欲によるものです。
私たちひとりひとりは、そんなに欲しているのか…といえば、実はそうでもないのに。
でも、あるのが当たり前になって、使い捨てが当たり前になって、次々に出る新製品の消費と供給が当たり前になって、「当たり前」が地球や自分たちを蝕んでいることに気付く間も、いや、本当はみんなわかっているのに、どうする術もない状況です。
人類の「進化」や「発展」への欲が、そういう選択させていくんですかね。
それが滅亡や枯渇の結末を孕んでいても。

水俣・和光大学展のコピーは「知ることから始めよう。」
24日までの開催です。

この日は加藤登紀子さんのトークと弾き語りを聴くことができました。普段のコンサートでは話さないこともたくさん、彼女の熱い想いが、冷静で重厚で、知的な言葉によってどんどん紡がれていく中で、私は泣きっぱなしでした。歌を、詩を、声を、楽器を武器にして人生を賭けて闘ってきて、おそらく個人の人生としては勝利しているのだけれど、大きな敵にまだまだ歯がたたなくて、この闘いをともに闘う同志たちに呼び掛け、未来を担う後輩たちに託して行く。しんしんと、彼女の意志が会場の人々に染みていく様を、私もその一人になって見つめていました。
水俣フォーラム理事の先輩のお誘いに、忙しいと言いつつ素直に足を運んで良かったと感謝しました。
コメント
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