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赤い鳥/ゴールデン・ディスク

2008-04-14 00:04:02 | インポート

赤い鳥 / ゴールデン・ディスク
グループ名は
鈴木三重吉童話集『赤い鳥』からとった。赤い屋根の家(兵庫県尼崎市武庫之庄)コンサートから、1969年4月結成。 1969年11月、「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に関西・四国地区代表として出場。 『竹田の子守唄』、『COME AND GO WITH ME』を歌い、フォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑え、グランプリを獲得(この時、オフコース(当時は「ジ・オフ・コース」として)、チューリップ(当時は「ザ・フォー・シンガーズ」として)も出場していた)。財津和夫はオフコースを聴いて「負けた」と思い、オフコースの小田和正は赤い鳥を聴いて「負けた」と思ったという。
 1970年6月にシングル『人生』、アルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でメジャーデビュー。 メンバーは、後藤悦治郎(ギター)、平山泰代(ピアノ。1974年2月後藤と結婚)、山本俊彦(ギター)、新居潤子(1973年4月に山本と結婚し、山本潤子)(ボーカル、ギター)、大川茂(ベース。1969年6月加入)の5名(後期には、大村憲司(ギター。1972年2月~1973年4月)、村上秀一(ドラム。1972年6月~1973年4月、村上“ポンタ”秀一)、渡辺俊幸(ドラム、キーボード。1972年4月~)を加える)。
 1971年発売の『竹田の子守唄/翼をください』が発売3年で100万枚を突破するヒットになった。
 
各人がボーカルを担当することができ、美しいハーモニーが魅力的なグループであった。 各地の子守唄・伝承されている歌などを美しいコーラスワークで聴かせる傍ら、トニー・マコーレイ(en:Tony_Macaulay)などの曲提供によりアルバムを発表するなどいわゆるソフトロック的な音楽性も兼ね備えていた(そのため、関西地区で結成されたグループであるが、関西フォークとは一線を画していた)。路線対立から1974年に解散。
 
その後、後藤・平山の夫妻が「紙ふうせん」、山本夫妻と大川が「ハイ・ファイ・セット」を結成した。 紙ふうせんはフォークのあり方を追求し、ハイ・ファイ・セットは荒井由実ジャズを取り上げるなど、お洒落でポップな演奏を繰り拡げた。また、渡辺俊幸は1976年さだまさしのバックボーンとなってプロデュース・編曲・バックバンドのメンバーなどで活躍した。グレープ解散後さだは渡辺と新ユニットの結成も模索していたといわれる。            『ウィキペディア(Wikipedia)』

   SIDE 1
 河 ・ 忘れていた朝 ・ 赤い花、白い花 ・ 誰のために ・ 赤い屋根の家 ・旅 ・ 白い花
   SIDE 2
 竹田の子守唄 ・ 虹を歌おう  ・ビューティ・ワールド ・ ちっちゃな子守唄 ・ 明日に架ける橋 ・
 紙風船 ・ 翼をください・
   SIDE 3
 パーティーへおいでよ ・ 風は旅人 ・ 雨 ・ 鳥のように ・ まつり ・ 美しい朝 ・
 祈り / メサイヤ「アーメン・コーラス」より
   SIDE 4
 二人 ・ みちくさ ・ 恋よさようなら ・ こわれた世界 ・ ラヴ・ヒム ・ 窓に明りがともる時 ・
 美しい星

 誰が
なんと言おうと、『竹田の子守唄/翼をください』は名曲ですね    。