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日本で最も古い観光地・伊勢神宮・・・・H23正月休み(1)

2011-01-20 23:39:50 | 心の世界・死後の世界・・・神社仏閣

 17日からは爺婆の正月休み。

 初日17日、愛知県地方は10年ぶりの大雪だったようです。更に事故が加わり運休と遅れの名鉄でした。いつもは1時間程度で名古屋に着くのが、1時間40~50分掛かりました。でも、近鉄電車はほぼ定刻通りに運行されてました。予定のある旅では無く、お伊勢(内宮)さんに着いたのは当初の予定から1時間程度遅れて午後1時頃でした。

 御垣内参拝をさせて戴き、気持ち良く一年が始まった感じです。その後「荒祭宮」「風日祈宮」をお参りしました。途中「荒祭宮」の手前にパワースポットのブームなのか杉の木の巨木がありますが、多くの方が撫ぜたたとみえて一部がツルツルでした。若い方は観光案内の雑誌を見て、お年寄りは観光バスで、お伊勢さんは観光地そのものです。もっとも江戸時代はもとより、古くは平安時代から「伊勢」は観光地だったようです。

         伊勢神宮正宮  

 正宮の裏(後ろ)にある荒祭宮

 

 罰当たりな話を一つ。・・・・神宮は何故「伊勢」にあるのか考えたことありますか? 継体天皇の出身である「福井」ではいけないんでしょうか。初代天皇である神武天皇にゆかりの「吉野」「大和」では?海の幸・山の幸に恵まれた「丹波・丹後」とか「淡路島」ではダメなんでしょうか?

 今から記す事は全くもって根も葉もない爺の私見であり、戯言です。

 天武天皇が壬申の乱で勝利することが出来たのは、伊賀から伊勢の豪族のお陰であったと思います。出家をして吉野に身を引いていたが天智天皇の崩御のあと吉野を抜け出し、都に向かいました。だが、近江の力は強く入京できる状態ではありません。方向を変え、伊賀そして伊勢へやって来ました。家康が伊賀越えののち三河に帰ったように、大海女皇子も伊賀を経由して伊勢に入りそこで挙兵したのだと思っています。途中美濃に至った時尾張など東国の豪族の助けを得て、近江朝廷を倒すことができたのだと思います。

 道案内をした伊賀衆それを象徴するのが椿大神社(猿田彦)であり、彼は道案内の神様となったのだろう。内宮近くにある猿田彦神社は分社で、時代もずいぶん後と聞いている。猿田彦は名前から想像するに、猿のようで、忍者のように身軽だったのだろう。神武天皇が大和に入る時道案内をしたという話だが、神武天皇が歩いた九州から吉野そして大和までの何処でもない伊賀を抜けたところ、今の鈴鹿市に椿大神社があるのは、神武天皇ではなく、天武天皇の案内人だったからだろう。また、日本書紀・古事記は天武天皇の後に創作された物語である。全て創作ではないだろう。何処がフィクションで、どこがノンフィクションか考えてみるのも面白いだろう。

 そして、挙兵をした時の殊勲を感謝して伊勢に神宮を造っったのではなかろうか。(伊勢)神宮を何処にするか各地を転々としたが、その各地とは壬申の乱で味方に付いた各地であったと思うのです。伊勢は海の幸・山の幸に恵まれまた温暖な気候の地です。お伊勢参りは今で言うならさしずめ「リゾート」へ行くことのようです。

           女人高野室生寺 

 都から伊勢へ行く道程は大きくは3ルートありました。①明日香から伊勢へ行くには、桜井から曽爾村を経由し朝熊に抜けるルートいわゆる伊勢本街道です。名松線の当初予定ルートに近いです。②奈良から伊勢へ行く道としては伊賀または名張へ抜け松阪へと行く道でしょう。③京都・近江から伊勢を目指す場合は伊賀から津・松阪・伊勢へと行くルートでしょう。関西本線・紀伊本線・参宮線のルートです。

 女人高野室生寺を立ち寄るルートも有ったでしょう。この他にもルートはいろいろあったと思われます。 

 いずれの時もあらゆる人々にとって伊勢は一生に一度は行ってみたい所だったのでしょう。現在はハワイかパリといったところかもしれませんが・・・。そして、いつも日本人は「何でもアリ」の民族だったのかも知れませんね。日本という国は「八百万の神々の国」ですから、他の神様もさらに外国の神様も受け入れちゃうんです・・・。この、めちゃくちゃな日本が爺は大好きなんです。

コメント
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