普通のおっさんの溜め息

戦前派から若い世代の人たちへの申し送りです。政治、社会、教育など批判だけでなく、「前向きの提案」も聞いて下さい。

貧困化の連鎖をいかに断ち切るか

2013-01-17 20:17:07 | 政策、社会情勢

・貧困を前向きに活かせ・教師が授業に集中できるよう学校の合理化・優秀の学生を活かす国としての政策
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 生活保護のうち、食費など生活費を賄う生活扶助の支給額が、一般の低所得世帯の生活費支出を上回る逆転現象改善のための活保護費の適正化が問題になっています。
 早速人権団体の猛反対の画像とともに、テレビの解説者は貧困の連鎖の問題を指摘しています。
 この問題で一番良いのは低所得者の給料を上げれば良いのでしょうが、止めようが無いグローバル化の中では圧倒的な低賃金の国の企業と対抗するには、どうすれば良いかと言う難しい問題がでてきます。
 それで今日は貧乏なために就学の機会が無くなり次の世代も貧困になると言う「貧困の連鎖」に就いて考えて見たいと思います。
なお私の経験を文末に書いていますのでご参考までに。
[私の提案]
・貧困を前向きに活かせ
a.携帯・スマホなど情報の不足、ゲームとの絶縁→学校の授業が面白くなると前向きに捉える
b.読書への投資を惜しむな、出来ないときは図書館の利用(学校でも授業前に読書を進めている。)
c.読書から得た情報を自分なりに考えて見る習慣を付ける
d.家族の財政面も含む助け合い(就職しても独立するまでは給与は全て家に入れる。)
e.就職後の通学も考える(場合により学習効果が大きい)
・学校の合理化
a.学校内の対立を辞め生徒中心の運営にする(日教組には入らない、特定の思想を教育に持ち込まない)
b.教育委員会関連のレポート提出は最小限にする(教師の労力の削減)
c.指導方針のマニュアル化、教育資料の使い回し(教師の労力の削減)
d.塾に行かなくても全国共通テストで一定の成績を得るように学校で全ての責任を持つ
(生徒の希望者には時間外の指導も惜しまない。)
e.教育の内容の指導だけでなく勉強方法の指導もする
f.先生としてのプライドを取り戻し戦前のように父兄から尊敬される存在になって貰いたい
g.今や教育の邪魔者になっているモンスター・ペアレンツが今後発生しないように教育をすること(私は権利一辺倒、それに伴う義務、責任の軽視の指導が原因と思う。)
・国としての政策
a.意欲或る優秀な生徒の発掘と彼らへの重点投資をする
b.戦前のような師範、陸士、海兵など貧乏で優秀な学生でも出世の道を開いてやるようなに学校を作る
c.大学の文科、理科など一般学部に就いてはセンター試験の一定の成績の入学者の数に応じて補助金を増減するなどして重点投資をする。
d.就職後再度就学した人達への途中入社の道を開くとか、待遇の改善を図るなどの推進策を考える。

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[貧乏人の子沢山の家庭で育った私の経験]
 最初にお断りして置きますが、何か自慢たらしく書いているように見えますが、読んで頂ければ判るように要するに私がたまたま運が良かっただけだとお判りになると思います。
・小学校から高等小学校(今の中学校)
 私の家は当時の父が今で言う非正規社員、子ども5人を抱えたそれこそ貧乏k子だくさんを絵に書いたような家でした。 (弁当と言えばごはんに醤油をかけた鰹節だけのおかずのこともありました。)
 母は今と違って炊事、選択、掃除など全て手仕事。子どもの教育などかまう暇なく、家庭訪問の先生には「子どもが言うことを聞かなければ殴ってくれ」、子ども達には「人様に迷惑だけはかけるな」とだけ。
 子ども達はそれを良いことにして、家では宿題の他は一日中遊びほうけていました。
 私の場合は不器用だったので、当時の学科で言うと書き方、図画、唱歌、体操などは5点満点で言えば1~2点、読み方、算術、理科などは3~4点と言う普通かそれ以下の生徒でした。
 学年が進み金持ちの子の進学がでるころになると手や身体を使う学科は相変わらず低位でしたが頭を使う方は時々5点を貰うことが多く成り、遂には中学校(今の高校)進学の子で遅れがちの子の面倒を見るように席を並べさせらるまでになりました。
 そして貧乏な私は当然のように高等小学校に進み、小学校からの推薦があったそうでいきなり級長になりました。
 それも家での勉強はせずに宿題など忘れて立たされる格好の悪い級長でした。
 その原因は私が無類の本好きで当時の勧善懲悪の講談本から母や姉の買ってきた婦人雑誌(当時は漢字は全てルビ付き)まで乱読のお蔭で物事の理解力と、自分で物事を考える癖がついたこと、集中力が養われたこと。
 それと全般のことですが当時は情報がなく、授業で習うことが全て新しいことばかりで、面白かったことなどがあります。
 詰まり家で勉強しなくても学校の習うことが乾いたスポンジのように吸い込まれていたのです。そして年老いた今となっては懐かしい子ども時代の記憶力。
 一方学校のほうは情報過多の今と違って面白可笑しくする授業するために特別の教材の準備も必要はなく、小学校、高等小学校でも、どの学級でも同じような原始的な教え方だったような気がします。
 教師の中には子ども心に随分酷い人もいましたが、生徒からの質問などには皆嫌がりもせず親切に答えていました。
 また戦前の事ですから日教組など困った存在も教育委員会もないので、報告の書類は多分殆どないし受験競争も無かったので教師にとって随分楽な仕事だったような気がします。
 そして一方世間からは先生として敬われる存在でしたので、生徒にとっては絶対的な存在でした。
・工業学校(今の高等工業学校)
 高等小学校からはまた当然のように就職試験を受けて合格の知らせを貰っていましたが、親が急に工業学校に言っては言い出しました。
 私の姉、兄が同じように高小を卒業して給料を皆家に入れていたので、少しは家計が楽になったのでしょう。(私も弟二人も同様に就職して結婚するまでは皆給料を家に入れていました。)
従って受験準備もしませんでしたが、競争倍率9倍と言う難関を何とか突破することが出来ました。
 然し入学してからの成績はさっぱりでした。
 何故なら専攻の機械関係の学科に英語、代数、幾何 まったく新しい分野。
 厳しい受験勉強をして来た他の生徒は受験勉強で徹夜も厭わないのに、高小まで遊んで来た私は機械関係の丸暗記もできず中途半端で受験したのですから、いきなりクラスでも中ごろと言う普通の生徒に戻りました。
 さすがのんびり屋の私も夏休みに英語と数学だけは一からやり直しましたがそれでお終い。
・高等工業専門学校(今の新制大学)
 化学会社に就職して慣れた始めたころ、有り余る精力の捌け口に高等工業専門学校の夜間部に入学しましたが、そこでは二年生、三年生と続いて授業免除の特待生になったので、通学には交通費だけで済むことに成りました。
 その理由は簡単です。
 ・工業学校で習ったことを程度は少し上がるが内容はほぼ変わらないこと。
・他の学生に取っては工業学校時代の私のように、全く新しい学科なのに、私は学校で習うことを実際に現場で見聞きし取り扱っていること
・現場での定期修理の準備のように、システム的に定期試験の準備が出来たこと、その準備は通勤や通学の電車の中で済んだため家での試験勉強はなし。
・新制大学
 旧制高専を卒業した後、趣味の英語の纏めをしたくなって新制大学の英語科の夜間部に入りました。
 そこでの定期試験は楽なもので、英語の試験時間の半分で答案提出はたびたび。
 一般教養学科の受験準備は通勤、通学の電車の中のシステム的な勉強。
 お蔭で此処でも奨学金を貸与して貰ったので交通費だけの経費で済みました。(勿論完済しました。)
 理由は入学までの電車の中の時間潰しに英語の原書を読んでいたからです。
 電車の中の勉強と言っても毎日の読書ですから仮に1時間×250日×10年=2500時間の読書量は他の学生とは圧倒的な差があったからです。
以上を見ればお判りと思いますが私の読書好き、集中力、現場で得た実際的な知識など私のプラス面が偶然にも良いほうに良い方に働いただけです。
私は就職後夜学を卒業して「学歴」は上がりましたが、親達の暮しや弟達の通学を優先して同じ会社に同じ地位で働き続けました。
もしより良い位置を求めて転職したら、もし多くの人達と同じように猛勉強したらと言う考えもないとは言えませんが、私の性格から高い地位の管理者は不向きと思いますので、旧制高専の知識や英語力を見込まれて(これも幸運ですが)80歳まで働けただけで良かったのではないかと思っています。