1月26日にNHKの九州全域向けの放送で「いじめ」の問題に関する放送があり、多くの学校関係者の間の討論があった。
印象から言えば、なんとなく方向は見えかかっているが、これと言った解決策もないようだった。
教育再生会議の答申もいじめっ子の出席停止以外には、決め手がなさそうだ。
出席停止さえ多くの批判が出ている。
私も何度かブログに「いじめ」について意見を書いていたが、放送や答申に見るように、問題が複雑で難しいため、いろいろな対策が考えられる中で、特にポイントの点に絞って改めて纏めてみることにした。
<<いじめなど殆どなかった戦前>>
私の経験した戦前のT尋常小学校からY高等小学校(今でいう中学校)、Y工業学校(今で言う高校)、までの間、クラスの友達に朝鮮の人や、当時まだ、差別をされていた人達の子供もいたが、「いじめ」を見聞した事はなかった。
私自身も貧乏な家庭の子で、弁当はのおかずは鰹の削り節に醤油をかけたもの、汚れた服装、袖には鼻汁をこすった跡、人見知りする気弱な子と言う、今なら恰好のいじめのターゲットになりそうな私でさえいじめられた経験は全くなかった。
今で言う高校時代には、所謂、硬派という悪餓鬼がいて、よその学校の生徒達との喧嘩に明け暮れていたが、自校の生徒には絶対に手を出したりいじめをする人はいなかった。
<<いじめがなかった原因>>
実は前このことを書いた私のブログに、私と近い世代の人から、ひどいいじめを見聞したコメントがあったが、私の経験したのと違った環境だったのだと思う。
1.開放的な土地柄であった。
当時は、Y製鉄を中心とする発展途上の工業地帯で、多くの人が流入すると言う、割合開放的な土地柄もあった。
2.子供達の価値観
九州男児と言われる土地柄で、男の生徒の場合、男らしいことが尊ばれ、弱いものいじめをしたり、集団で一人をいじめるなど「卑怯者の仕業」と思われていた。
そして子供ながら皆プライドを持っていたようだ。
もし誰かがいじめに近いいたずらをしていたら必ずがき大将が出てきてそれを止めていた。
また、いじめっ子など、いくら強くてもがき大将にはなれなかっただろう。
女生徒の場合は、他人への思いやりや優しさ、良く気がつくなどのある子が大人達から褒められて育っていました。
しかし、男女が別れて遊ぶ習慣で、男である私は、女の子の社会でいじめなかつたと思うが、正確には知らない。
3.開かれた子供社会の存在
家庭の中にも小さな子ども社会があり、社会の中では子ども達の遊び仲間がおり、地域の大人達から見守れながら遊んでいて、自然と団体生活になれていた。
<<「いじめ」が起こったときの対処法>>
私がいたY高等小学校の頃「講堂修身」と 言うのがあった。
学校内で何か問題があると、生徒全員を講堂に集め、約一時間、先生の何人かが交代で、生徒全員に「気合」を入れるのだ。
そのころ前に書いたように「いじめ」など殆どなかったが、「いじめ」の場合にはこのような処置をとっただろう。
いじめ側、いじめられ側も特定せずに、全員集めるのだ。
先生は教育に非常に熱心で生徒達にも人望がある人が何人か選ばれているようだった。
「いじめ」の場合はこんなことを言っただろう。
弱い者いじめしたり、多人数で一人にいじめをするのは卑怯者だ。
いじめを見て見ぬふりをするのも卑怯者だ。
自分に気に入らぬ人をいじめる人、人の心の痛みの判らぬも人、心の狭い人間だ。
冗談でからかっても、相手が嫌な顔をしたら直ぐ止めろ。
それが相手への思いやりだ。
もし、このような生徒がそのまま社会に出たら皆から爪弾きにされたり、落ちこぼれになるに決まっている。
学校はそんな生徒を一人でも出したくない。
だから学校からいじめを根絶したい。
もしいじめの兆候があったら、無記名で良いから学校の誰にでも良いから、教えろ。
これだけ先生達が言って、もしまた問題が出たら、学校が出来るだけ君たちを守るが、どうしても手におえぬのについては、警察に通報する。(やむを得ない時は本当に実施する。)
何故ならいじめの中には、社会では恐喝、名誉棄損、セクシャル・ハラスメントなど犯罪になるものが多い。
学校も治外法権でなく、日本の法律を守らねばならぬからだ。(学校としてこの倫理観を本当に持つ)
そして、同じような問題がまた起きるたびに、全員がいじめが悪い事、いじめをする人が、人間として恥ずかしい事を皆が判るまで、何度も何度も「講堂修身」を繰り返すのだ。
このやり方の良い所は、
1.従来の人の生命は尊いなど、奇麗事ばかりの教育からネガティブ面からの話、生徒達の生活に直結した話しになる。
2.いじめに関係して個人を特定しないので、思い切った話しができること。
3.いじめっ子が全校生徒の中で自分の悪い事を聞かされることは、内心で恥ずかしい思いをさせられる。
しかし、人物を特定されていないので、皆の面前で本人が辱めを受けることにはならない。
4.いじめは卑怯者のすること、思いやりとうの美徳が生徒の心の中にしみこむ。(教室での教育とともにこのことが生徒の心の中にしみこむまでやる)
5.普通の生徒まで何度も「講堂修身」に呼ばれることは、いじめっ子への反感となり、学校へのいじめの通報が増すことを彼らが気がつくこと。
6.教師がいじめ防止に団結してることを示す。
何回か「講堂修身」を繰り返す内に、生徒達も次第にいじめの本質に気づき始め、いじめっ子への皆の見方も変わって来て次第にいじめが減ってくると思う。
<<いじめ防止の方法>>
私の小さな体験は次の事を示している。
1.「いじめ」はあるものだと決めつけずに、「いじめ」のない学校を調べる事。
テレビに良く出てくる夜間中学校でいじめなどあるだろうか。
そしてその学校の環境や対策も検討すること。
2.今盛んに言われている、国際化にも関連して、変わった服装、考え方、習慣を持つ人を認め、分け隔てなくつきあう事の大切さを教える。
3.「いじめ」は卑怯もののすることで、恥ずかしいものだとか、思いやりの大切さを幼稚園のときから教え込む。
恐らく関係者(教育再生会議の人達さえ)がこの事くらい皆知っていて大声で言わないのは、過去の軍国主義と結びつけられるのを恐れているからと思うが過去の美徳は、教育界にも思い切って取り入れるべきと思う。
4.子供社会をより広く開かれたものにする。
地域、父兄、教師の子供と触れる機会を多くする。(恐らく学校を自分達の影響力下に置きたい日教組系の教師は嫌うだろうが)
昨日のNHKの地域放送でも「チクリ」の必要を認めるべきだと言っていたが、その言葉の持つ卑劣な感じは密閉空間である子供社会から別の空間?の教師への通報が卑劣と生徒が思っていることから生まれた感じだ。
だから子供と教師、地域、父兄が生徒と同じ空間を共有すること(実は当然のこと)からこの卑劣感はなくなり、問題の学校への通報への抵抗感がなくなる。
5.私の経験した「講堂修身」(名前などどうでも良いが)に似た形式で、いじめっ子、いじめられっ子の自尊心を傷つけずに物事を解決する方を考える。
地域のどこかのテレビで、F教育大の付属中学でこれと似た事をやっていたのを見た。
それは今らしく優しいやり方でしかも一回限りかも知れないが、「講堂修身」はもっと激しく生徒話し(隠れいじめっ子には厳しく感じる)、ことの起こる度に何回もやる違いがある。
勿論「いじめ」がこれだけでなくなるとは思えないし、私も他のブログでも色々書いているが、少なくとも何らかのヒントにはなると思う。
参考資料
私の考えるいじめ防止策 他
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