明日は終戦の日。
今日も平和。甲子園には高校球児の熱い戦いが繰り広げられている。
その日は、真夏の太陽が照りつける少し霞んではいたが青空の見える暑い日だった。毎日のように鳴る空襲警報のサイレンも今朝はならない。
当時10歳、国民学校4年生。
先生が今日12時に重大放送がある。午前中で授業は終わりと告げられた。
その日、登校のさいにモンペ姿の母が、今日はお盆、お昼はぜんざいといってくれた。授業が終わると重大放送よりも、ぜんざい目当てに急いで家に帰った。
ラジオの前に父と母、それに祖母、我が家の全員がかしこまって正座している。ぜんざいもあるが、とりあえずその後ろに正座した。
ラジオの雑音がひどく聞きとれない。その声は時には大きくまた低く、海辺の波の音のように聞こえてくる。
陛下のお言葉だと父がいった。終戦を告げられる陛下のお言葉だった。
よく分からなかったが戦争に負けたのだと、その場の雰囲気で子供ながらに察することができた。
その日のぜんざい。食糧難の時代、小豆などはとてつもない贅沢品。どこにあったのだろうか。
だが、そのぜんざいには、パラパラと小豆が浮いているだけ。だんごはトウモロコシ(糖きび)の粉、固まりきらずにだらりと底に沈んでいる。
それでも、思わぬおごちそう。いただきますととびついた。あれあれ、甘くない。貴重品の砂糖は手に入らなかったと母がさびしそうにいった。
素晴らしかったその味は忘れられない。塩味のぜんざい、いただくうちにだんだん甘く感じてきた。
おいしかった。本当においしかった。
その日の夜、我が家にはあかあかと電灯がついた。家中の窓を全部あけた。涼しい風が入ってくる。天井板の取りはらわれた天井から見える大きな梁も今夜はすっきりと見える。夜空の星も輝いている。
昨日までは、燈火管制で窓には黒いカーテンが、電灯は外に光が漏れないように布で覆い、いつ鳴るか分からない空襲警報におびえた夜を何度も迎えたものだ。戦争は終わった。
非情な戦争は戦闘員にかぎらず、非戦闘員の老若男女も誘い、内外に200万人とも300万人ともいわれる多数の犠牲者をだした。
広島、長崎には原爆が投下され一瞬にして10万を超える方々が犠牲になられ、今も苦しまれているかたがいる。
終戦記念の日の事を思い浮かべながら、平和を大事にしたいと願うばかり。憲法第9条は戦争の放棄をうたっている。それは日本人のこころ。
長崎の田上市長は、平和祈念式典の平和宣言で「被爆国の原点に返れ」と痛烈に政府を批判された。
わたしの声は小さい、しかし「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ」といつまでも叫び続けることとする。