小学校の情報教育って難しいよね。
もう少しで卒業式、区切りの時期だから少し、だらだらした長文で昭和の教育をつたえます。
やってはいけませんということを伝えるために、その事を禁じれば必ずやめるかどうかは、微妙な問題だということを先生たちは知ってますよね。
昭和の時代にも、廊下を走る子どもにどう指導したらいいか、結構難しい問題でした。
大きな声で指導すれば高圧的と言われるし、放っておけば怪我したときに、なぜ注意しなかったのかを問われるし、「なぜ、走ったの?」と聞けば「わからない」と答える笑。
廊下は歩くところだというブロパガンダを生徒指導のこわもて先生が行うか、児童会という子どもたちを動員してキャンペーンを実施するかなんかを考えたことがありましたが、「守るべき規則作り」以外あまり思いうかびませんでした。
結局、なんか「大人の社会」の真似事みたいで違和感を持ったので、廊下にプランターの花を並べたことがありました。
のんびりした時代でしたね。
今の時代は「情報教育」ですか。
ネットでのトラブルを予防するためにどう指導したらいいのか、ですね。
利用スキルや利用モラルが理解できる年齢まで利用させないのが一番だとおもいますが、大人がそうしたものを理解しない間に利用し始めたこともあるし、ネット利用を今更やめろということが、言えないぐらいの社会の激しい変化がありましたよね。
元々は「免許制度」が必要だと思ってましたが、「殖産振興」の国策や世界の流れの中で「スマート社会」という「便利さ」を売り物にした社会になりつつあるようです。
情報教育と「社会の変化」は深い関係があることを、まずその事を認識させることが必要ですね。
小学校なら社会科や総合の時間ですね。同時に教科の指導ではなく「考える時間」が必要でした。知らない方も多いのですが、ひとつの単元で教える時間は決められていて、議論は大事なことが分かっていてもゆっくり時間をとるのが難しいですよね。
特にトラブルについては、「人の心の動き」や「モラル」とも関係があるので、全体を俯瞰するイメージを作ることが大切だと思います。
僕は社会科や総合からのアプローチをしたので、古典的な「シチズンシップ(市民教育)」から派生した「デジタルシチズンシップ」に注目しました。
情報機器がいち早く使われたアメリカの情報社会でどのように情報と付き合っていくかの指標になったものです。
モラルだけを取り出して「規則や道徳意識」の必要を学校で指導することもできるとは思いますが、評価が必要な「道徳の時間」やマニュアルがある「◯◯指導」の時間ではない、カッコいいコトバでいえば「解のない問いを考える時間」が確保できれば何でもいいというスタンスでしたね。
アプローチの仕方は、それぞれの先生たちの「課題意識」で違うとおもいますが、定義や理論という知識を教えることより、その事を子どもたちとともに考える場としての授業っていうどんなものだろうっていう感覚でしたね。
あなたの「情報の隠蔽と公開」という問題意識は「情報の真偽」をどのように判断できるようにするかと関わる部分があるようですね。
隠されていた情報や埋もれていた情報を見つけたり、公開することが可能になったなら、「人は隠すことをやめる」と思い込むことは、性善説を信じやすい若い先生としては正論なのでしょうが、したたかなベテランは早計だと考えるでしようね。
見つけた情報に価値をつけて、操作したり、事実にまぎらわせてフェイクを挿入して混乱させたり「情報の真偽」を判断することが、ますます難しい時代になっていますよね。
利益を追求するあまり「道徳的倫理や規範」が無視されることもあるという「リアル」を現実社会を経験していないといわれる教員の「理想論的な解釈」だけでは難しい部分ですね。
正しい答えを「先生」が伝えなければいけないと思い込む真面目な先生が悩む部分でもあるのですよね。
現実だけで夢や理想を忘れたら「人としての生き方に困ることはないのだろうか」なんて言い返したかったのです
、ぐっとこらえたのが昭和でしたね。
だからといって家庭で「リアル」だけを伝えたのでは「前向きな姿勢」が生まれたのかな。
「諦め」や「指示待ち」の若者に出会うとき、「理想だけを伝えた先生」だけの責任だとはいいきれないようにも思います。
確かに不文律としての「嘘も方便」の世界をどう伝えるのか。「大人は嘘つき」という意識にどう対応するのか、けっこう大変ですよね「リアル」を伝えるのことは。
アンタッチャブルといわれる部分や「タブー」という部分にまで踏み込むことも必要になるかもしれませんね。
オープンエンドの学習は、子どもたちの深まりはあっても、保護者や同僚、管理職の理解がないと独りよがりの学習とおまわれる場合もあるので、しっかり意図を回りに伝えるスキルがあなたに必要になるかもししれません。
話がそれてしまいそうです。
イデオロギーではなく「国」という存在の首領がいつの時代にも手に入れようとしたのは「情報」だったように思うのですが、今度、歴史の先生に聞いてみようかなと思ってます。
社会科が得意な先生ならそこからアプローチできますよね。
テレビやネットでは、トランプ大統領になってからだけではななく、世界的に社会全体が、まるで「情報戦争」の様相を呈しているように感じることがあります。
「正しい情報」というミサイルがそこかしこから打ち込まれているって感じですね。
こうした大きな変化が起きている今、学校ではなにができるかなと考えてますか笑
忙しくてそんなこと考えてないかもしれませんね。だから先生って仕事に魅力がなくなったのかも笑
必要だと思ったことを、教科指導だけのなかで行おうとするのではなく、横断的に時間と指導案をつくり行うことが可能なのは、もう知ってますよね。
やってみたいというあなたの思いは素敵ですが、なぜ、その授業が必要なのかを回りに理解がないと情報教育アレルギーもまだあるし、思いつきだけでやるのは小学校では難しいかもしれませんが、取り組む価値はあると思います。
前年度年間計画と赤本だけの授業と分掌の仕事で忙しいだろうけど、そろそろそうしたものを見極める力が身に付いてきたのかな。
決まった情報だけを伝えて、その手順どおりの方法で行っているかを確認して評価するのが「小学校の先生」の仕事なら、確かに小学校はいらないかもしれないね。
今の世の中の人が「情報として」小学校教員を「安定した塾の先生としての職業」として認識しているのは「学歴、知識社会における小学校」としての位置づけと、「勤労者としての職業意識」の変化があるからかもしれないね。
総合的な学習(探究)の時間が楽しかったのは、そうしたものを越える何かがあったのかもしれませんね。
ただ、そこに「生きがい」を感じるかどうかは、個人の問題だよね。
話を戻すよ笑
正しいと思われる情報を収集するためには、その情報ソースがどのようなものであるかも調べつつあまたの情報を飲み込む必要があるのはあなたたちなら理解できると思いますが、そのツールも手段も持たない人と、それらを持つ「為政者」とのデバイドがうまれているように思えるのです。
フェイクニュースや迷惑メール予防ためのURL確認の習慣を身に付けさせることは歯磨き指導と同じぐらい必要な生活習慣になるかもしれないのに、なぜ、学校ではしないのだろう?
意外とこんなことで何かが見えんかもしれないね。
「世の中の役にたつこと」=「生産性を生み出すこと」で「困っている人を助けること」には必ずしも合致しない、その事を考えずに継承している「伝統」という文化が学校にはあるのもしれないね。
「情報」は「力」を持つ者のためだけに利用されるなら、本来の力を発揮することはできなく「疑心暗鬼」という状況を生み出し、「分断」や「対立」を起こすという仕組みを子どもたちに考えさせずに、その利点だけを正解とするのはなんだかおかしいよね。
「民衆」という人々を操作するごとに気づかせられない「情報教育」は偽善なのだと「専門家」や学校の先生たちは気づかないのだろうか、と思うことがあります。「情報教育」の理想が見つけられなかったというストレスがあったのかもしれませんね。
情報教育は家庭や社会で行うべきだという議論もあるかもしれないけど「情報教育」は分担された誰かがやるのではなく、それぞれが自分の立場で何ができるのかを考える課題なんだと思います。
「タブー」はなぜ生まれ、「タブー」であることて得をする人たちは誰か。
何もゴシップのことをいっているのではないのですが、「タブー」が明らかになることにワクワクしてしまう人々の気持ちを利用して「フェイク」が「タブー」だったこととして明らかになるという構造もありますよね。
5人のライングループはひとつしかないとと思っている人たちといくつものライングループがあると分かって利用するの人たちとでは、「全員グループライン」での発信内容も違ってくるわけで、こんなことを年配の管理職がどこまで理解できるのか、情報教育の沼は深いですよね。
でも、そこを考えさせることが「経済」と「学歴の優位性」だけを教える学校よりも、今必要なのかもしれませんね。
このあたりは、「教育学」ではなく「教育方法学」や「教育工学」という世界なのですが、世間的には「教育学」の倫理で判断されることが多いから、先生たちが混乱するのかもしれませんね。
高校の「情報」教育でしか教えられないとしたら、オープンな情報公開を目指したはずの「情報」が、「タブー」や「闇」を生み出すものになってしまっているように思います。
折角フェイクニュースを取り上げるなら、サイバープロパガンダまで、踏み込める指導が、小学校でも出来るはずですよね。
「情報教育」における「情報リテラシー」は両刃の刃だとおもいます。
ネットにはサイバープロパガンダが溢れてますが、矛盾をみつけさせることができれば意図的なソースの信頼を消すことができますよね。
面白い世の中になったと感じられるのは判断できる力を持っている人たち、情報分析の弱者はカモられる、そんな時代のようにも思います。
何が言いたいのか、フェイクニュースを教材に授業にしたのなら、次はサイバープロパガンダの授業をやってみるのも面白いかな、ということでした。