
映画は「どうすればよかつたのか?」で、すでにいい論評がSNSで紹介されている。YouTubeでも取り上げられている。評判がよく、映画評も多く、観る必要があるか戸惑ったが、百聞は一見にしかず、なので桜坂劇場で観た。
思ったほど観客は少なく、前評判がいいので、驚いた。
4浪して医学部に入った8歳年上の姉が24歳にして解剖の授業の後奇声をあげ、家籠りするようになった。しかし、医師・研究者の両親は、医学的治療に躊躇した。家族のその後を2001年から2021年まで追跡、記録した作品。
藤野知明監督の詳細なインタビューもネットで読める。それがとてもいい。率直に語っている。
それぞれの家族の物語には陰翳があり、光と影は、その濃度の差異と共に何らかのシュールな側面、常理と不条理の境界を行きつ戻りつしているのだと、感じていた。
心理的な綾、深淵は時代を、社会の諸相を、罪と罰を、成功と失敗を、愛憎を、希望と悲哀を、プライドと自虐をも顕にする。
関係の絶対性、とかの吉本隆明が書いていたことが脳裏に浮かぶ。家族の絶対性の表記もあったと記憶していたのだが、『共同幻想論』の中に対幻想が展開され、確か家族はコアになっていた。若い頃に読んだ書籍で、また読み返してみなければ、と思いつつネット検索をすると、分かりやすい対談が紹介されている。
子として、親として思う事は多々。藤野監督が家族の光と闇を記録し表出せざるを得なかった必然性は、映画制作の現場に身を置いて、家族とは何か、また医師・研究者のインテリ層の両親に対する疑念、優しかった姉に対する贖罪の気持ちがあったのだと感じられた。
救われたはずの姉の人生が、両親の思惑の中で犠牲になったと言えるのかもしれない。
歪さはしかし修正されていった。年月はかかったが〜。家族はそれぞれに関係性の桎梏を生きてきたのも事実だ。
同じ北海道で起きた精神科の医師の娘による頭部切断殺人事件の裁判記録の詳細も、親子の凄まじい関係性の闇を照らしている。
親子の愛憎や相互依存関係、精神が悪魔化していく闇の深さをネット情報は伝えている。
家族の絶対性、子として、親として逃れることのできない関係性の結び目をどう解きほどき、個々がのびのびと、苦楽はあるものの、より良き人生を全うできるか、人はそれぞれに試されているようだ。
社会や国、世界のあり様とも絡み合っているのはもちろんだが、平穏に過ぎていくように思える、直に殺戮し合う戦争に巻き込まれていない、状況に置いても、家族の関係性は、精神に心に血を流しあっているのかもしれない。
心の出血は、生の出血以上に過酷な様相を示している現実だろうか。
さて与儀公園の桜は、曇り空の下で、華やかさは薄れたが、花を愛でる喜びを得た。以前のヒカンサクラはもっと多くの市民を惹きつけていたと記憶しているが〜。
映画は、家族とは何かを問いかけている。病と人間の関係性もまた〜。






