
2回の台風でせっかく作ったニガウリ(ゴーヤー)の棚は全滅に近かった。かろうじて生き延びたゴーヤーをそのままにし、種から芽が出たゴーヤーにはネットを用意した。季節の移ろいには彼らも容赦なく徐々に葉っぱが黄色くなっていく。それも野菜としてのゴーヤーの宿命だろうけれど、なぜかいじらしく、けなげでそうした中で数本の実がぶら下がっていたりする。小さく、さほど大きくならない前に実が黄色くなったりする。
自らゴーヤーを種や苗から育ててその実を手にした時の歓びは忘れない。いつでもこうして豊かに栄養価の高い実をつけてくれることに感謝している。
野菜のありがたさは自ら種や苗から育ててみると直に伝ってくる。収穫した野菜でも料理する前に水につけておくと彼らはやはり生き物なんだと思う。葉っぱが生き生きとしている。ごちそうになります。ありがとうと声をかける。「いただきます」。野菜も生きているのだ。その野菜を住処にしている小さな昆虫類もまた生きている。生態系の不思議なつながりに驚きとため息をつかざるを得ない。それぞれの種はそれぞれの命の役割をもって存在しているのだ。
ゴーヤーがすっかり枯れてしまうまでしばらく東側の菜園の種蒔きはできない。雑草も生い茂ってくるが、その中でフーチバーの花が咲いたりしている。花から種ができ、また苗が育っていくのを見届けたい。
からし菜も夏に花が咲き、種が落ちそこから芽が出て葉が大きくなっている。これからまた花がさくこともあるのだろうか。亜熱帯の島でも温度が下がると植物や野菜もまた違った顔になっていく。
もうしばらくゴーヤーの実を味わえるのかもしれない。シークワーサーの実も今が収穫時期である。決して多くはないが、秋の味覚として一日に何個か剪定ばさみに丁寧に実を切り取っている。謝!

花黄色くなっていく。その中にゴーヤーの実が!

シークワーサーの枝に巻き付いているゴーヤー!

台風を生き延びてまたつるが伸びてシークワーサーの樹から実がぶら下がっている!つるは昆虫の触覚のように空中を泳いでいたのだ。

シークワーサーの実はそろそろ剪定バサミで丁寧に収穫する必要がありそうだ。カミキリムシはしっかり幹に卵を産んで、幼虫が巣くっていることがわかるが、殺虫剤を使わないことにした。ひょっとしたらまたこのシークワーサーの樹も枯れるのかもしれない。それが生態系の必然ならしょうがないとも思う。

目を離している内にすぐ黄色くなってしまうゴーヤーの実。