飲んでもブログ

飲んでいる時に付けたタイトルで間違いではありません。
趣味は山登りやハイキングとDVD映画の収集です。

小田原城天守閣(2020)

2020年07月19日 | Weblog
 此の所、天気が急変する空模様が続いていますが皆さま如何お過ごしですか?
 7月18日(土)は、急に雨が降って来ても大丈夫なように、小田原城の天守閣に上ってみました。
 小田原城址公園は今年4月の「小田原城の桜」で来ていますが、天守閣に上るのは平成の大改修(2015年7月~2016年4月)後は初めてです。

<本丸広場に向かう>

 今回の登城ルートは、小田原駅東口から東海道本線の線路沿いの北入口から入るルートにしました。


 線路沿いを歩いていると、万葉俱楽部が委託している工事中の建物(旅籠?)がありました。


 近くに、ご覧のような小田原駅東口駐車場があったので撮ってみました。




 旭丘高校前の交差点に、周辺案内図があったので現在地を確認しました。


 横断歩道を渡ると、道路に大名行列のタイルがあったので撮ってみました。


 小田原城の北入口に着きましたが、雨は少し降っていました。


 北入口の左側に、登城解禁と小田原城案内図があったので撮ってみました。


 尚、小田原城案内図には正規登城ルートが赤線で載っていました。


 御用米曲輪を左に見ながら、ご覧のような坂道を上ります。


 取り敢えず、御用米曲輪を撮ってみましたが発掘調査は一段落しているようです。




 左側の藪に、ご覧のような紫陽花が咲いていたので撮ってみました。




 坂道の途中に、説明案内板「御用米曲輪の戦国時代のかわらけ」が出ていたので撮ってみました。




 坂道を上っていると天守閣が見えたのでアップで撮ってみました。


 ここにも、説明案内板「御用米曲輪の池」が出ていたので撮ってみました。


 昔を忍ばせる石垣があったので撮ってみました。


 石垣の上に紫陽花が咲いていていましたが見頃は過ぎていました。


 左側に、御用米曲輪を見ながら本丸広場に向かいます。


 本丸広場に着いたので天守閣を撮ってみました。


 天守閣の階段下に、新型コロナウイルス感染症予防の検査テントが設営されていました。
 近くに、案内板「小田原城址公園 花案内」があったので撮ってみましたが、今はユリやハスが見頃の時期みたいです。




 取り敢えず、小田原城天守閣の登城口を撮ってみました。


 ご覧のような石段を上って登城口に向かいました。

<天守閣1F>

 階段を上ると、右側に改札口があるので受付で料金(510円)を払って中に入ります。


 壁に「江戸時代の小田原城」の絵があったので撮ってみました。


 中央に描かれているのが小田原城ですかね!?




 天守閣の模型があったので撮ってみました。
 小田原城は、戦国時代の小田原北条氏の居城として有名ですが、天守の存在が確認できるのは江戸時代初期のこと(相州小田原古絵図)みたいです。
 又、小田原城天守(天守閣)は、明治3年(1870)に解体撤去され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、平成28年(2016)の大改修で現在に至っています。


 全国の天守のTOP10が載っていましたが、小田原城天守は27.2mの第7位でした。
 因みに、第1位は大阪城天守(41.5m)、第2位は名古屋城天守(36.1m)、第3位は島原城天守(33.0m)でした。




 近くに、小田原城再興碑があったので碑文と一緒に撮ってみました。
 この再興碑は、元禄16年(1703)の大地震による壊滅的被害を、藩主(大久保忠増)が復興の経緯を伝える為に宝永2年(1705)に造った碑みたいです。




 天守閣(?)の上棟式に用いられる儀式用の大工道具があったのでアップで撮ってみました。


 ご覧のような鯱瓦があったので撮ってみました。


 「小田原城の城主たちと小田原城のあゆみ」があったので撮ってみました。
 各城主(大森氏・北条氏・前期大久保氏・番城/阿部氏・稲葉氏・後期大久保氏)が、応永24年(1417)~明治4年(1871)の出来事と一緒に載っていました。


 特に、前期大久保氏は大久保彦左衛門、稲葉氏は春日局、後期大久保氏は二宮尊徳との関係で載っていました。




 「寛永年間小田原城廓総図(宮内庁図)」を基に再現した小田原城の最盛期の模型があったので撮ってみました。


 小田原城内で出土された三ツ葉葵紋の瓦があったので撮ってみましたが、徳川幕府との関係が深かったことが分かります。




 小田原名物の「ういろう」があったので撮ってみました。
 「ういろう」は外郎(ういろう)家で創設され、外郎家は六百余年の伝統を保っているようです。

<天守閣2F>

 2Fは、小田原城を本拠地とした戦国大名、小田原北条氏の足跡を紹介しています。
 2Fに上ると「戦国時代の小田原城」がありますがは、内部は撮影禁止になっていました。




 ご覧のように、外が見える休憩スペースがあったので一休みしました。


 所々に、マスクを付けた武将が座っていました。






 素晴らしい刺繍絵が展示してあったのでアップで撮ってみました。

<天守閣3F>

 3Fは、小田原ゆかりの美術工芸品や発掘調査の成果を紹介しています。
 3Fに上ると、外が見えるご覧のような回廊がありました。


 2Fの屋根瓦が見えたので撮ってみました。




 本丸広場の本丸売店と休憩ベンチが見えたので撮ってみました。


 又、奥の方にSAMURAI館も見えたので撮ってみました。


 小田原市指定文化財の杉戸絵の花鳥図(岡本秋暉筆)がありましたが、ガラスが反射していて上手く撮れませんでした。






 折角なので、杉戸絵を個別にアップで撮ってみました。


 

 御用米曲輪で見つかった切石敷遺構があったので撮ってみました。








 又「かわらけ」や陶磁器が展示されていたので撮ってみました。


 ご覧のような漆工も展示してありました。


 鎧や兜が展示してあったので撮ってみました。






 折角なので、鎧と胴着と兜をアップで撮ってみました。




 ついでに、太刀が展示してあったので撮ってみました。


 一回りすると、杉戸絵の裏に画題が違う花鳥図が描かれていたので撮ってみました。

<天守閣4F>

 4Fは、明治時代から現代に至る小田原城の歴史が紹介されています。
 4Fに上ると、吹き抜けに花鳥図が吊り下げられていました。


 折角なので、吊り下げられている花鳥図をアップで撮ってみました。


 又、3Fにあった杉戸絵(裏)も見えたので撮ってみました。


 回廊に「南曲輪西隅櫓と常盤木門」の写真(1871年12月掲載)があったので撮ってみました。


 「御用邸正門(馬出門)と二の丸隅櫓」の写真(1909~1923)がありましたが、昔は御用邸があったようですね!


 「御用邸西御門と小峯橋(御茶壺橋)」の写真(1901~1923)があったので撮ってみました。


 「お堀端通りの桜と御用邸」の写真(1909~1923)がありました。


 関東大震災(1923年9月1日)で崩落した「二の丸住吉橋と銅門跡」が載っている写真がありました。


 ついでに「新たな城跡利用」の写真もあったので撮ってみました。
 震災後は御用邸は廃止されましたが「二の丸堀」は残され、昭和13年(1938)に城跡は国の史跡に指定されました。


 「水の公園(馬屋曲輪)」の写真(1940)があったので撮ってみました。


 「小田原町図書館(ニの丸観光案内所)」の写真(1940年頃)がありました。
 この建物は、馬屋曲輪内にある木造2階建ての建物(小田原ガイド協会の事務所)ですが面影は残っていますね!


 「こども文化博覧会(ゾウのウメ子とターザン)」の写真(1950)があったので撮ってみました。
 ターザンは外国人(ジョニー・ワイズミュラー?)みたいですが懐かしいですね!


 「天守台」の写真(1958年頃)があったので撮ってみました。


 又「天守台の観覧車」の写真(1956)もあったので撮ってみました。


 「再建された常磐木門」の写真(1970)があったので撮ってみました。




 回廊を一回りして戻って来たので、ご覧のような階段を上って展望デッキのある5Fに行ってみました。

<展望デッキ>

 展望デッキは西側から西南東北の順に一回りしてみました。




 晴れていれば、箱根山(明神ヶ岳、明星ヶ岳、駒ケ岳、二子山など)や石垣山一夜城が見えるのですが・・・


 南側に行くと、相模湾が見えましたが伊豆大島は見えませんでした。


 右側に、真鶴半島が見えたので撮ってみました。




 真鶴半島の先にある三ツ岩も見えたので倍率を上げて撮ってみました。


 東側に遣って来ると、本丸広場の常盤木門・SAMURAI館・巨松が見えました。


 又、真下には本丸広場も見えたので撮ってみました。


 展望デッキの北側に遣って来ました。


 正面に、国際医療福祉大学と青橋が見えたので撮ってみました。


 後方にある丹沢山の塔ノ岳・三ノ岳・大山などは見えませんでした。


 右側に、大磯方面が見えたので撮ってみました。




 折角なので、小田原駅南側と青橋をアップで撮ってみました。


 右側に、八幡山遺構群の東曲輪が見えたので、展望デッキを一回りしたことになります。




 幻想的な箱根山をアップで撮って、天守閣5Fに戻りました。

<天守閣5F>

 5Fは、摩利支天安置空間の再現、小田原城天守模型が展示してあります。






 取り敢えず、江戸時代の天守に祀られていたとされる摩利支天像の安置空間を撮ってみました。






 折角なので、摩利支天像(マリシテンゾウ)をアップで撮ってみました。
 摩利支天は、武士の間であつく信仰されていて、小田原城天守のものは三面六臂(3つの顔と6本の腕)で、イノシシに乗る姿で表されています。
 又、作られた時代は分かりませんが、天守の形をした厨子に納められていたようです。


 ついでに、天守型厨子をアップで撮ってみました。


 ご覧のような小田原城天守模型(東京大学模型)があったので撮ってみました。

<登城口>

 天守閣の登城口に戻って来たので下りの石段を撮ってみました。


 下の方に着くと「こども遊園地」が見えたので撮ってみましたが、雨で子供達はいませんでした。

<本丸広場>

 本丸広場に戻って来たので、猿の檻がある東側を撮ってみました。




 振り返って、天守閣も撮ってみました。


 雨が降ってベンチが濡れていたので、桜の木の下で休んでいる人達はいませんでした。


 ここからも天守閣を撮ってみました。


 折角なので、桜の木と一緒に天守閣を撮ってみました。




 猿の檻の前に遣って来たので、毛づくろいをしていた猿をアップで撮ってみました。


 見ていると、毛づくろいされた猿がお返しを始めたので撮ってみました。

<常盤木門(ときわぎもん)>

 猿の檻の後ろに、常盤木門があるので撮ってみました。


 取り敢えず、常盤木門を通って先に行ってみました。


 折角なので、常盤木門を正面から撮ってみました。


 ご覧のような常盤木門の石柱と説明案内板があったので撮ってみました。


 常盤木門の下には、ご覧のような常盤木橋があるので撮ってみました。

<花菖蒲園>





 常盤木橋から花菖蒲園を撮ってみましたが、ご覧のような花菖蒲は咲いていませんでした。






 花菖蒲園の土手に、貴重な紫陽花が咲いていたのでアップで撮ってみました。


 取り敢えず、花菖蒲園の園路に下りてみました。




 素晴らしい紫陽花が咲いていたので倍率を上げて撮ってみました。












 園路に、ご覧のような紫陽花が咲いていたのでアップで撮ってみました。


 園路の外れに遣って来ると、本丸茶屋の後ろに天守閣が見えたので撮ってみました。

<弁財天曲輪跡に向かう>

 二の丸広場の北側にあるご覧のような道路を通って先に行ってみました。


 道路の右側に、薄緑色の紫陽花が咲いていたので撮ってみました。


 別の場所にも、ご覧のような紫陽花が咲いていたのでアップで撮ってみました。




 折角なので、倍率を上げて撮ってみました。
 薄緑色の紫陽花の品種は分かりませんが、若しかしたら葉化病(萼が緑色に変色して葉っぱのように厚くなる)かも知れませんね!?

<弁財天曲輪跡>

 道路を暫く進むと、ご覧のような説明案内板のある弁財天曲輪跡に着きました。






 公園の後ろに、紫陽花が咲いていたのでアップで撮ってみました。
 近くに行ってみると、紫陽花は枯れていて変色していました。
 



 取り敢えず、弁財天曲輪跡の奥を撮ってみました。


 表に回って、標柱「史跡 小田原城址」と一緒に弁財天曲輪跡を撮ってみました。


 折角なので、正面から弁財天曲輪跡を撮ってみました。


 近くに、説明案内板「弁財天曲輪跡」があったので撮ってみました。


 再度、弁財天曲輪跡を撮って小田原駅に向かいました。

 帰りは「弁財天通り」から「お堀端通り」に出て、馴染みの居酒屋で飲みながら遅い昼食を取りました。

<二宮金次郎像>

 帰り掛けに、小田原駅の東口通路を通ると、マスク姿の二宮金次郎像がありました。


 折角なので、マスク姿の可愛らしい二宮金次郎像をアップで撮ってみました。

 今回の「小田原城天守閣(2020)」は、久しぶりの登城だったのですが色んな発見が出来て満足しています。
 特に、杉戸絵の花鳥図、古い写真に載っていた小田原城、あまり知られていない弁財天曲輪跡などは良かったです。
 尚、万歩計は、大して歩いていないので11,000歩を超える程度でした。
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