遊 悠 素 敵

なんて事ない日々を、野の花や野菜の花とともに綴っています。

独り言(椿の実)

2016-09-15 18:09:22 | つれづれ

今朝は、降ってはいないけど、、何時降り出すか?不安な空模様。
畑が気になります。でも、、、降り出したら、、ぐずぐずしてました。
ぐずぐずしてる自分にイライラしながらも、、、10時過ぎ、ようやく動き出しました。


一番先に蒔いたキャベツが、発芽したものの あまり良い状態とは言えません。
ハエ取り紙の親分のようなものを付けてもあります。

ちょっとだけ追肥してみました。

白菜・大根、、双葉です。それらにも、虫取りシートをセットして、雨がポツリと、1時間余り、、、

帰ってきました。気が済みました。



ふと思い出してた
チチ(舅)と同い年と言う老人の話です。

私が こちらに来た頃、ハハ(姑)は、時々畑仕事を手伝ってもらっていました。

同居じゃなかったので、どのくらいの頻度で依頼してたのかは判らないんですが、

偶々ハハ(姑)んちに行くと、そのお爺さんは勝手の上がり框に座ってカレーを食べていました。
 
1日単位で、つまり日雇い。昼食付きです。カレーをご所望だったそうです。

切れ切れに聞いた、そのお爺さんの情報は

子供の頃、小児麻痺を患い病院は田辺(7・80キロ)まで行かないと無かったそうです。 
ちなみに陸路は山道しかなく、田辺中学に進学したチチ(舅)は通学は無理で下宿してたと聞きました。

そんな状態ですから、当然 手遅れになり、知能の遅れが残りました。
運動機能に障害はなかったと思います。

そのお爺さんの母親は自分が亡くなったとの息子を心配し、畑仕事を覚えさせようとなさったそうです。

雇ってもらって、自分一人の食い扶持だけは、との思いで必死に仕込んだそうです。

でも、それは簡単なことじゃなかったでしょう、

物差しを持って、仕込んだと聞きました。息子の将来、自分亡き後を考えて必死だったことでしょう。

その甲斐あって、コツコツと丁寧な仕事ぶりだったそうです。

私が知った頃は、当然お母さまは無くなって、弟のお嫁さんに当たる人が世話をしてると聞きました。

その人の事を信頼しきってる風でした。

これは私の想像です。
母が物差しを持って、つまり身体に覚えさす、方法を取っても決して体罰ではなかったのです。
母は下の兄弟たちに知恵遅れの兄を蔑ろにすることを許さなかったと思いますし、
兄弟たちも母のそんな姿を理解してたと思います。
だから妻にも理解してもらい、妻もそんな接し方だったのでしょう。
だから母亡き後、弟の嫁を一番信頼し、心穏やかに暮らしていらっしゃったように見えました。



障害を持ってしまった息子、不憫で仕方なかったでしょう。普通の家で残せる財産なんて知れています。

その子が一生不安なく暮らせるには、どうしたら良いか
その不幸を嘆いてるだけじゃなく、前を向いて挑戦していった そのお母さんのように私は出来るだろうか?

雨のあと、またまた草に悩まされそうな畑、、
あのお爺さんのように手伝いをしてくれる人はいないけど、、今は、耕運機もあるし、

ボチボチやりますか。
 

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