ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

訃報・村瀬純師

2010-01-12 13:18:25 | 能楽

土曜日から日曜にかけて、箱根での結婚式への出演と伊豆での稽古に行って参りました。

土曜日の結婚式も滞りなく勤めることができ、その日は三島市の近所に泊まって、さて翌朝ホテルをチェックアウトはしたのですが、まだ伊豆での稽古には時間があります。そこで世界でもここだけ、という「富士竹類植物園」に行ってみました。1~3月までは日曜日しか開館していないというので、たまたまこの日に近所に来ていた ぬえはラッキーでした。ここはテーマパークのようなものではなく研究施設で、4万m2の敷地に500種類の竹類が植えられているそうです。竹は能では作物や道具類を作るのに欠かせない素材ですが、いやはやこんなにたくさんの竹の種類があるとは。

富士竹類植物園
→園内については「竹マニアブログ」に詳しいです

…と園内を散策していた ぬえの携帯電話に突然の連絡が。それは衝撃的な知らせでした。原因や詳細はわからないものの、能楽ワキ方の 村瀬純師が公演で訪れておられたシンガポールのホテルで急逝されたとのこと…

村瀬師は ぬえから見れば大先輩ですが、なんというか面倒見の厚い、親分肌の方で、若手の能楽師にも親身になってアドバイスしてくださったり、相談に乗ってくださったり…お世話になった方は数知れないと思います。

ぬえはある時期、村瀬師のアドバイスにとっても感激して、いろいろな事を伺っていました。それが元になって、自分が『道成寺』を披くときにもあえてお相手を願ったのです。

また、ぬえが結婚するときの話が故師の人柄を表すエピソードとしてもっともふさわしいでしょう。結婚のご案内を村瀬師に出して、そうしてしばらくして楽屋でご一緒になる機会がありました。師は「お、おまえ結婚するんだってな。おめでとう」と、そのときは何気ないお祝いのお言葉を頂いたのです。ところがその日、師は装束を着付けられながら、再び ぬえにお尋ねになりました「おまえ…尉扇って持ってるの?」

尉扇(じょうおうぎ)とは能で老人の役が持つ、白地に墨絵で「竹林七賢図」を描いた扇のことですが、突然の質問に ぬえは「え?…あ、いえ…お金がないもので」なんてとんちんかんな返事をしたものでした。師は重ねて「…つまり、持ってないんだな?」「あ…はい、持っていません」「そうか…」それだけでした。あと師はいつもと変わらず用意を済ませて舞台に出て行かれました。

そうしてまた数日後、これは楽屋でだったか…あるいは結婚式の当日であったか…村瀬師とご一緒の機会がありまして、その際いきなり師は「はいこれ。オレからのお祝いだ」とおっしゃて、丁寧に包まれた一つの平たい箱を ぬえに手渡されたのでした。これまた突然のことだったもので ぬえも通り一遍のお礼を申し上げて、そうして帰宅して包みをほどいて驚きました。中に入っていたのがこの画像の「尉扇」だったのです。

これ、絵を描かれたのは師の父君で同じくワキ方の故・村瀬登茂三師です。登茂三師は大変な画才に恵まれた方で、生前にはよく扇面を描いておられましたし、また観世流の機関誌『観世』誌の目次ページに長くカット画を描いておられました。そうして、登茂三師の描かれた扇は登茂三師や純師によって、ときにお祝いの場面で能楽師にプレゼントされたこともあったようです。ただ、ぬえなどは師からみればずっと後輩の若年で、しかも ぬえは家柄に生まれたわけでもない門外漢でした。それであっても分け隔てなく扇をプレゼントされた志に ぬえは大変感激しました。このプレゼントの包みをひらいたとたんに ぬえは絶句。そのとき囃子方の友人がそばにいましたね。…尉扇を見たこの友人も「これは…催しでこの扇を使って、そうして村瀬さんをお相手にお願いしてご恩返しをしなきゃいけないよ」と ぬえに言ったものです。

ぬえさえこうだったのだから、村瀬師にご恩を受けた能楽師はたくさんおられることでしょう。その後、いつだったか、ずっと後になってから舞台で尉の役があって、その能のお相手に村瀬師をお願いすることができました。

(村瀬師の逝去に関してはまだ詳細が伝えられていないため記事にすることを悩みましたが、その後いくつかの能楽師のブログ等で逝去の報そのものは伝えられましたので、ぬえも記事にする事に致しました。故師の生前のご恩に感謝申し上げ、謹んで哀悼の意を捧げたいと存じます。    合掌)