村瀬純師のご葬儀…ぬえはよんどころない用事がありまして、お通夜のみの出席となりました。
…でも、お見送りのときに村瀬師のお顔を見たら…ぬえ、ダメだったかもしれないです。(T.T)
さて結婚祝いに中啓を頂いた ぬえのお話。その後、これは扇を頂いたずうっと後のことになりますが、その扇を使って、村瀬師をお相手にシテを勤める機会が訪れました。ちなみに ぬえはその頂いた扇を、村瀬師のお相手のときにおろす…つまり初めて舞台で使う事に決めていたので、これがその扇のデビューになりました。
その日楽屋で村瀬師とお会いした ぬえは「この扇…頂いたものです。今日は初めてこれを使わせて頂きます」と申し上げたところ…意外そうな顔をされて、そうして ひとこと。 「ふん」 …これだけ。(^_^;)
まったく扇のことなどには頓着されず…というより誇るでもなく恩着せがましい態度を取るでもなく。いつも通りの村瀬師でした。「ちゃんと稽古は積んできたんだろうな? 舞台の上で見させてもらうぞ」と、口には出さないまでも そういうオーラが出ていました。いつものように。(;^_^A
そうなんです。後輩の面倒見のよい村瀬師は、ぬえの、いや、ぬえに限らないでしょうが、お相手を願った能が終わると、よく楽屋でいろいろとアドバイスをしてくださいました。ある時… あれは ぬえが『安達原』を勤めたとき、能が終わって楽屋で通り一遍のご挨拶をお互いに交わしたのですが、どうも村瀬師の態度があきらかに不機嫌。装束を脱がれた村瀬師はそのままご自分の楽屋で腕組みをして座っておられて。ぬえは恐る恐る村瀬師にあらためてご挨拶に伺いました。村瀬師は「おまえ…ちょっとそこに座れ」とおっしゃって。そうして「オレは…『安達原』を、もう100遍は勤めているよな」と切り出されました。「だが…おまえのようなやり方をオレは見たことがないぞ。他の人の舞台をちゃんと見ているか?」
これは当時の ぬえには衝撃的でした。いや、少なくとも同年代の能楽師の中では ぬえは格段に多くの舞台を勉強のために拝見に伺っていたつもりでしたから…。細かい点は長くなるので省きますけれども、要するに ぬえはその拝見したお舞台ではそのときシテを勤められた方の技術ばかりを参考に見ていたのですね。そして形付け…振り付けを書いた書物の中でも自分のパートばかりを見ていた事に気づかされたのでありました。囃子には造詣の深い ぬえは、囃子との合い具合などには相当に神経を注いでいましたけれども、おワキから言われたこの批判は、一番の能を作り上げる上で最も必要な視点を当時の ぬえは欠いていた事を端的に指摘していました。
シテ方は職掌柄どうしてもお囃子との具合の良し悪しを考えてしまうし、研究の方向もそちらに向きやすいかも知れないです。少なくとも当時の ぬえはそうでした。しかし考えてみれば、同じく立ち方として装束を着けて言葉を交わすワキ方の視点を常に考えていなければ、ワキの目を通して舞台で展開される事件を追体験されるお客さまにも演技は伝わりようがないわけで…。
おワキ方は、舞台のクライマックスの場面では ほとんどの場合、着座してシテを見つめる事に専念されておられるので、そうしてシテはついついその場面で丁々発止と舞台を進行させる地謡や囃子との関係に注目してしまうのですね。これはあまりに片手落ちな態度であるし、ある意味では見所に背を向けた指向性でありましょう。そうしてまた、このクライマックスの場面でシテを注視するおワキ方こそ、もっとも冷静な眼でシテを評価する立場でもあるのです。
この日村瀬師はいろいろな例を引いて ぬえに指導してくださいました。ぬえはそれ以後、能を勤める態度を最初からすべて見直すようになるほど、この日の体験は ぬえを変えてしまいました。今になって考えてみれば、シテ方とワキ方…に限らず流儀や職掌の違いを超えて、また若輩で新参者の ぬえの立場に対して、村瀬師のほかにこれほど懇切にアドバイスをしてくださった方があったかしらん…そうして村瀬師のアドバイスには、明らかに後輩に対して上達してほしい、という愛情がありました。
…そうして、ぬえは心に決めたのでした。ぬえが『道成寺』を披くときには村瀬師にお相手を願おう…
…でも、お見送りのときに村瀬師のお顔を見たら…ぬえ、ダメだったかもしれないです。(T.T)
さて結婚祝いに中啓を頂いた ぬえのお話。その後、これは扇を頂いたずうっと後のことになりますが、その扇を使って、村瀬師をお相手にシテを勤める機会が訪れました。ちなみに ぬえはその頂いた扇を、村瀬師のお相手のときにおろす…つまり初めて舞台で使う事に決めていたので、これがその扇のデビューになりました。
その日楽屋で村瀬師とお会いした ぬえは「この扇…頂いたものです。今日は初めてこれを使わせて頂きます」と申し上げたところ…意外そうな顔をされて、そうして ひとこと。 「ふん」 …これだけ。(^_^;)
まったく扇のことなどには頓着されず…というより誇るでもなく恩着せがましい態度を取るでもなく。いつも通りの村瀬師でした。「ちゃんと稽古は積んできたんだろうな? 舞台の上で見させてもらうぞ」と、口には出さないまでも そういうオーラが出ていました。いつものように。(;^_^A
そうなんです。後輩の面倒見のよい村瀬師は、ぬえの、いや、ぬえに限らないでしょうが、お相手を願った能が終わると、よく楽屋でいろいろとアドバイスをしてくださいました。ある時… あれは ぬえが『安達原』を勤めたとき、能が終わって楽屋で通り一遍のご挨拶をお互いに交わしたのですが、どうも村瀬師の態度があきらかに不機嫌。装束を脱がれた村瀬師はそのままご自分の楽屋で腕組みをして座っておられて。ぬえは恐る恐る村瀬師にあらためてご挨拶に伺いました。村瀬師は「おまえ…ちょっとそこに座れ」とおっしゃって。そうして「オレは…『安達原』を、もう100遍は勤めているよな」と切り出されました。「だが…おまえのようなやり方をオレは見たことがないぞ。他の人の舞台をちゃんと見ているか?」
これは当時の ぬえには衝撃的でした。いや、少なくとも同年代の能楽師の中では ぬえは格段に多くの舞台を勉強のために拝見に伺っていたつもりでしたから…。細かい点は長くなるので省きますけれども、要するに ぬえはその拝見したお舞台ではそのときシテを勤められた方の技術ばかりを参考に見ていたのですね。そして形付け…振り付けを書いた書物の中でも自分のパートばかりを見ていた事に気づかされたのでありました。囃子には造詣の深い ぬえは、囃子との合い具合などには相当に神経を注いでいましたけれども、おワキから言われたこの批判は、一番の能を作り上げる上で最も必要な視点を当時の ぬえは欠いていた事を端的に指摘していました。
シテ方は職掌柄どうしてもお囃子との具合の良し悪しを考えてしまうし、研究の方向もそちらに向きやすいかも知れないです。少なくとも当時の ぬえはそうでした。しかし考えてみれば、同じく立ち方として装束を着けて言葉を交わすワキ方の視点を常に考えていなければ、ワキの目を通して舞台で展開される事件を追体験されるお客さまにも演技は伝わりようがないわけで…。
おワキ方は、舞台のクライマックスの場面では ほとんどの場合、着座してシテを見つめる事に専念されておられるので、そうしてシテはついついその場面で丁々発止と舞台を進行させる地謡や囃子との関係に注目してしまうのですね。これはあまりに片手落ちな態度であるし、ある意味では見所に背を向けた指向性でありましょう。そうしてまた、このクライマックスの場面でシテを注視するおワキ方こそ、もっとも冷静な眼でシテを評価する立場でもあるのです。
この日村瀬師はいろいろな例を引いて ぬえに指導してくださいました。ぬえはそれ以後、能を勤める態度を最初からすべて見直すようになるほど、この日の体験は ぬえを変えてしまいました。今になって考えてみれば、シテ方とワキ方…に限らず流儀や職掌の違いを超えて、また若輩で新参者の ぬえの立場に対して、村瀬師のほかにこれほど懇切にアドバイスをしてくださった方があったかしらん…そうして村瀬師のアドバイスには、明らかに後輩に対して上達してほしい、という愛情がありました。
…そうして、ぬえは心に決めたのでした。ぬえが『道成寺』を披くときには村瀬師にお相手を願おう…