ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その2)~市内寺社で奉納舞囃子

2013-08-01 07:56:17 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【7月31日(水)】

翌日は、前日とはうって変わって忙しい日となりました。前述の通り今回の活動では石巻川開き祭りの中に出演しようと喜び勇んでスケジュールを立てはじめた ぬえたちでありましたが、交渉を始めてみると、実際にはお祭りの盛り上がりに、能の出演の機会はほとんど見つからないという有様でした。そこで川開き祭りへの出演は、イベントよりはむしろ寺社への奉納として出演する方向へ転換をする事を考えたのですが、意外やこれが新たな交友関係や活動が発展する可能性を期待できるような展開となったのでした。

石巻の川開き祭りは、市民にとっては花火を見たり露店で遊んだりを楽しむ盛大なお祭りですが、本来は石巻の街の基礎を築いた川村孫兵衛の供養のために大正時代に始められたものでした。現在でもこの精神は受け継がれていて、お祭りの役員さんなど関係者によって、市内各地にある川村孫兵衛の墓や顕彰碑、銅像などをまわって供養祭が執り行われることになっていました。ぬえたちはこの機会に、孫兵衛や土地の神様、本尊へのご挨拶のため供養祭のあとにその会場となる寺社で奉納上演をさせて頂くこととなりました。

まずは朝8:00、住吉公園にある孫兵衛顕彰碑の前で執り行われる「川開き祭典」のあと、同じ公園内に鎮座する大島住吉神社で舞囃子『融』を奉納させて頂きました。大島住吉神社での奉納は、2012年の元朝に勤めさせて頂いて以来2度目になります。このとき ぬえたちを歓待してくださった氏子さんの代表の方に再会し、当時の上演の写真を頂戴したり、なんだか懐かしい。当時は元日でもあり社殿の前の境内で舞囃子『高砂』を勤めたのですが、今回はこのところ続いていた降雨のため境内の地面のコンディションが思わしくなく、拝殿の中で上演させて頂きました。「川開き祭典」は市長さんや関係者も集って顕彰碑の前で祝詞が奏上されましたが、役員さんたちはすぐに次の式典に出席するために移動。ぬえたちは大島住吉神社の氏子さんたちが見守る中、無事に奉納をさせて頂きました。





このあと一旦宿に戻って汗だくになった下着を着替え、笛のTさんは再び8月に活動する登米市へ。ぬえは宿で昼食を摂って事務作業など。午後、石巻市民で ぬえたちの石巻での活動では毎度お手伝い頂いている相澤利喜子さんとともに牧山にある零羊崎(ひつじさき)神社へ。

こちらは川開き祭りの式典会場ではないのですが、チーム神戸や、湊小学校避難所時代から湊地区の再生のために先頭をきって尽力しておられる住民さんの佐藤哲美さんのお力添えを頂いて奉納が実現しました。考えてみれば ぬえたちは石巻の湊地区で2年以上活動しているのですが、この地区の守り神というべき零羊崎神社さんにご挨拶するのはこれが初めてです。宮司さんよりお祓いをして頂き、チーム神戸のリーダー・金田真須美さんや佐藤さん、それから地域の関係者の方々の前で、舞囃子『融』を勤めさせて頂きました。




(画像は金田真須美さんよりご提供頂きました~)

零羊崎神は立派な社殿で驚きましたが、こちらでは法印神楽が伝承されているそうで、ぬえたちが帰京したすぐ後に奉納の上演が行われるそうで、その関係者さんともご挨拶することができました。ぬえもこれだけ立派な社殿であれば、次回は装束能を奉納したり、また法印神楽との競演をするなど、将来の活動について夢が広がりました。

零羊崎神社さんを後にして、次の奉納会場である普誓寺さんへ移動。少し時間があったので、その間に石巻漁港や門脇の被災地区に立ち寄ってみました。

こちら、鯨缶詰を模した巨大なタンクが流されて、しばらくそのタンクが道路の中央分離帯の緑地に残されていた「木の屋」さんの工場が再建されていました。鯨の缶詰はいまや東京でもあちこちで目にするようになりました。



石巻漁港。まだまだ復旧工事が続いていますが、岸壁には大きな漁船が何隻も停泊していました。



門脇小学校には目隠しのシートが取り付けられていました。この学校も「震災遺構」として残すか、取り壊されるか意見が分かれています。このシートは解体工事が始まったわけではなく、グラウンドを付近の学校が使うためだそうです。被災した市民病院と文化センターは巨大な建物のため長いこと放置されていましたが、ようやく取り壊し工事が始まっていました。



こちらも有名な「がんばろう石巻」の大看板。ヒマワリが植えられ、仙台の七夕祭りのような飾りが取り付けられていました。