ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その7)~女川町でミネさんと再会

2013-08-08 09:41:27 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて工事中で道路が変わったため少々混乱しながら野球場仮設へ。仮設住宅が建つ総合運動公園の方ヘ海から内陸に向かって進んでいくと、途中にあったガレキ置き場はすっかりキレイに片づいていました。



こちら、昨年10月の同じ場所。



やがて野球場仮設に到着。奥に見える巨大な「総合体育館」の手前、目につく白いテントは坂本龍一さんが寄贈した、その名も「坂本龍一マルシェ」です。ぬえもここで上演させて頂いたこともありますし、住民さんのためにバザーが開かれていたり、常は子どもたちの遊び場になっていたりと、住民さんに身近な存在になっています。



野球場仮設は、仮設住宅の中でもオシャレだということで、建設当時ずいぶん話題に上りました。2階建て、3階建ての仮設というのも珍しいですが、じつはこれはコンテナを積み上げて建てたものなのだそうです。



坂本龍一マルシェに行ってみると、七夕の飾りが美しく飾られています。野球場仮設に専属で住民さんのお世話をしている、伊藤恵悟さんがいらっしゃいました。



伊藤さんはボランティア出身で、そのまま女川町に住みついて、いまは社協の一員として町の仕事を続けています。同じようにボランティア出身で、今でも女川町で仕事を続けている方を他にも知っていますが、ボランティア時代は半年をテントで暮らし、住民さんと結婚して、その奥さんのご自宅も流されてしまったため、いまは仮設で暮らしておられるという。。頭の下がる熱意です。女川町に限らずこのようにボランティア出身で地元に定着された方も多数おられますが、これはうまくいった例だと思います。一方では住民さんとトラブルになってしまったり、今となっては「被災地のお荷物」と陰口を言われたりするボランティアさんも何人もおられましたから。。

早速ミネさんのお宅に行って、戸外から呼んでみました。ミネさん、最近ちょっと体調を崩しておられたそうで、やはりおうちの中におられました。

じつは滞在中にミネさんとはお会いするつもりで、割とスケジュールが空いていた今回の活動では、ミネさんをお誘いして牡鹿半島の先端にある御番所公園へのドライブも事前にお誘いしてあったのですが、このとき最近体調を崩されていたことを聞いて、あまり遠出はできないと伺い、ドライブを断念した経緯があります。これで女川を訪れる理由がなくなってしまったし、また何だかんだと石巻でもやることがあったので、石巻滞在中に女川まで足を運ぶこともできませんでした。この日 ぬえたちは帰京する予定でしたが、やはり東京から数百km離れた女川町には次にいつ訪れることができるかもわからず、それで社協さんに今後の女川町での活動のやり方について相談することを兼ねて、ミネさんの顔だけでも見に行こうかと。

結果的に社協さんでもかなり親切に相談に乗って頂いて、今後の活動の可能性も広がりましたし、ミネさんともこうしてお会いすることが出来て、やっぱり女川町に来てよかった。

ミネさんは ぬえたちをおうちの中に招き入れてくださり、この日初めて仮設のおうちにお邪魔させて頂きました。ここで撮影した画像の公開は控えますが、アコーディオン・ドアや引き戸で仕切られた小さな部屋が3つ、それにキッチンや居間、お風呂にトイレがつく。。聞こえは良いですが、やはり狭さは否めないおうちでした。これでも息子さんとお嫁さん、それに幼いお孫さんと5人の世帯で、仮設の中では最も広い間取りです。以前英子さんのおうちにもお邪魔させて頂きましたが、こちらはお一人住まいなのでワンルームの間取りでした。

体調を崩されたそうですが、ミネさんはいたってお元気で、お変わりもないように見えました。アイスコーヒーをご馳走になったり、世間話に花を咲かせて、そのうち外に出て昼食を一緒に食べよう、という話になって、ボランティア仲間から「おいしい」と評判を聞いていたお店「おかせい」に行くことになりました。

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その6)~女川町を訪問

2013-08-08 02:10:55 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【8月2日(金)】

翌朝、ホテルでは朝食代わりに おにぎりを用意してくださいまして、ちょっと疲れもたまっていたので朝10時にチェックアウト。前日ちょっと顔を出した立町ふれあい商店街にご挨拶し、また石巻駅前の観光協会さんにもご挨拶して、これにて帰京。。と行くところですが、ぬえには どうしても気になる場所が。。

それは女川町の野球場仮設にお住まいのミネおばあちゃん。

今から1年前、昨年の6月にはじめてこちらの仮設で能の上演をさせて頂いてから、思わずもミネさんから感謝のお手紙が ぬえの許に届きまして、それから交流が始まりました。またもう一人 英子さんという、やはり野球場仮設にお住まいの住民さんのご協力も頂き、この後プロジェクトとしても女川町で上演させて頂くようになり、また ぬえは家族でも活動させて頂いたこともあります。活動の場も「コンテナ村」「きぼうのかね商店街」と仮設商店街にも広がっていきました。

女川町に行くたびにミネさんに会いに行きます。息子さんとお嫁さん、そしてまだ幼いお孫さんと一緒に仮設にお住まいのミネおばあちゃん。そうだ、女川町で活動がない場合でも、石巻で時間が余ったときは おばあちゃんに会いに行ったこともあったっけ。

そんなわけで今回も帰京の前に女川町に立ち寄って ミネおばあちゃんに会いに行くことにしました。東京都は反対方面ですけどね。

。。とはいえ、ぬえたちも次の公演に向けて準備を進める作業も怠ってはいませんで、この時も女川町には事前に上演のアイデアをお伝えして、それにふさわしい会場を探して頂いていました。そこでこの日も、まず石巻から電話をして、女川町の社会福祉協議会の担当の方にお会いして頂く約束を取り付け、まずはそこに向かうことに。

女川の社協は、万石浦のそばから女川地域医療センター(旧・町立病院)のお隣に引っ越しされたとのこと。ここにお邪魔して、担当の方としばし上演についての相談をさせて頂く。。つもりでしたが、いや、これが大盛り上がりになりまして、かなり長時間。。30~40分もお話し。。というか談笑させて頂き、お祭りなど町の行事への参加まで話題にのぼりました。ぬえも次回の活動について、女川町での実現に確信を持つことができました。今年の秋頃に実施にこぎ着けるのを、とりあえずの目標にしようと考えています。

社協をおいとまして、高台にある医療センターの駐車場から女川町の旧中心部を見下ろしてみると。。



横転した江島共済会館ビルはそのままでしたが、それまで更地だった沿岸の地域は大掛かりな工事が行われていました。コンクリートブロックも並べてあったので、まさかマリンパル女川の再建が始まったのか? と思いましたが、実際には地盤沈下した土地のかさ上げ工事のようです。

高台から下りて近づいてみると。。江島共済会館ビルのそばに祭壇がありました。これは七十七銀行女川支店の犠牲者に捧げられたもの。同支店では大地震の直後に支店長の指示によって行員が高台ではなく2階建ての支店ビル屋上に避難することになり、指示に従った13名の行員・スタッフのうち津波によって4名が死亡、支店長を含む8名が行方不明という大惨事となってしまい、この避難の経緯の是非をめぐって遺族が銀行を相手取って裁判が行われています。。





江島共済会館ビルとともに現在も横倒しのまま残されている女川サプリメントの建物。いつの間にか被害の状況を記した説明板が立てられていました。



これを読むと、建物の中にいまだに車が残されている、とのこと。。知りませんでした。よく中を見てみると。。なるほど。。わかりますか? 建物と一緒に横倒しになったピンク色の小型乗用車が部屋いっぱいになって残されていました。。





この2つの建物と、女川交番の3つが、女川町では「震災遺構」として保存するかどうかの議論が続いています。気仙沼の第十八共徳丸、志津川の防災庁舎ビル、石巻の門脇小学校。。どれも保存の是非が議論され、結論が出たところもあり、まだまだ決着に至らないものもあり。。ぬえはこの女川町で、高台から江島共済会館ビルを見下ろした時、これは残すべきではない、と思い、その気持ちはいまも変わらないのですが、一方 震災の被害が風化してゆく現状や、すべての「遺構」がなくなったら、人がやって来なくなり、それは地域の再生への活力を失うことになる、という意見もあって、現実にそうなってしまった場所も見てしまった ぬえは心が揺れています。

こちらは残されている3つめの建物、女川交番。



このあたり、道路も大規模な工事が進行中で、現在はこの交番の周囲は立ち入り禁止となって近づけない状態になっていました。前述の英子さんは、この交番の まさにお隣で釣具店を経営されていた方。よくまあご無事だったと思いますが、高名なご主人は震災の犠牲となってしまわれました。英子さんの釣具店はいま、仮設商店街の中で営業を再開し、また英子さんもご主人の遺志を継いで活動されたり、ご主人の業績をまとめる作業で忙しくしておられます。それからこの流された交番も、現在は仮設商店街の中に「仮設の交番」として再開しています。