ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『氷室』。。本格的な脇能(その8)

2008-09-09 02:40:43 | 能楽
ようやく問答も終盤になってきました。6月に勤めた『歌占』といい、最近は長い文句を覚えなきゃならない能が多いような。。

ワキ「げにげに翁の申す如く(正へ直し)。山も所も木深き蔭の。日影もさゝぬ深谷なれば。春夏までも雪氷の。消えぬも又は理なり。
シテ「いや所によりて氷の消えぬと承るは(ワキへ向き)。君の威光も無きに似たり。
ワキ「ただ世の常の雪氷は(正へ直し)。
シテ「一夜の間にも年越ゆれば。
ワキ「春立つ風には消ゆるものを。
シテ「されば歌にも(ワキへ向き)。
ワキ「貫之が(二足ツメ)。

このへんのシテの論理、ちょっと複雑でわかりにくいかも。時代によって様々な場所に氷室が設えられたけれども、いまはここ 丹波国桑田郡に氷室を定めたのだ、というシテの説明に対してワキは「なるほど、ここは山深くて日の光も射さない場所なので、春夏まで氷が消えないのも道理なのかもしれない」と納得したのです。ところがシテは「場所によって氷が消えない」というワキの言葉に異を唱えて「それでは君の威光もない、と言うにに等しい」と、やや語気を荒げて、さて以下、地謡の初同にかけてなぜ氷室の氷が溶けないのか、という説明になります。

地謡「袖ひぢて(正へ直し)。掬びし水の凍れるを(ツレは地謡座前に行き着座)。掬びし水の凍れるを。春立つ今日の(右ウケ)。風や解くらんと詠みたれば(正へ直し少し出)。夜の間に来る。春にだに氷は消ゆる習ひなり(ヒラキ)。ましてや(角へ行き)。春過ぎ夏たけて(正へ直し)。はや水無月になるまでも(左へ廻り)。消えぬ雪の薄氷。供御の力にあらでは。如何でか残る(シテ柱にてワキへサシ込)。雪ならん(ヒラキ)、いかでか残る雪ならん(中まで出下居)。

「初同」というのはその能の中で初めて地謡が謡う箇所を指します。「同」が地謡の事で、かつては地謡のことを「同吟」と呼んでいた名残です。もっとも「初同」として認識されるのは「下歌」「上歌」など小段と考えられる程度にまとまった分量のある拍子合の謡の部分で、「地取」とか「一セイ」の「二ノ句」を地謡が謡う場合でも、それは初同とは呼んでいません。

この「初同」は「上歌」ですが、脇能に限らず多くの能で初同の上歌に共通の型です。これまた定型なのです。ここまでくると『氷室』という曲の個性はどこにあるの? という感じですが、実際の上演ではそのようなワンパターンは一向に感じられないから不思議。

さてここで述べられるシテの論理というのはこういうものです。

紀貫之の歌に「袖ひぢて掬びし水の凍れるを 春立つ今日の風や解くらん」とあるように、春を迎えて消えてゆく氷は、深夜に年が変わり元日を迎えたとたんに溶け始める宿命が開始されるのだ。ところがこの氷は春どころか夏も盛りの水無月になっても、いまだに消えることがない。これは天皇に捧げ奉る供御になる氷であるから、その威光によってでなければ、今まで消えずに残っていようはずもない。

旧暦では元日と立春がほぼ重なっていて、だいたい現在の暦の2月6日頃(江戸後期からは2月4日頃)にそれはやってきました。そして立春から立夏の前日までを春とするので、元日のまだ氷の張る冷たい水を掬う手に「今日の立春の風がこの氷を解かすのだろうか」と詠んだのが『古今和歌集』巻一所収の貫之の前掲の歌です。まだ風も冷たいのに、立春を迎えて一抹の暖かさを期待する歌なのですが、能では元日から溶け始める氷が夏まで消えずに残っているのは、氷室という場所のせいではなく、帝の威光によるものなのだ、と説いている、というわけですね。

ところで余談ですが、この貫之の歌、『古今和歌集』巻一の巻頭、堂々第二首目を飾る歌です。『古今和歌集』は時系列に歌が並べられている和歌集で、巻一が「春歌上」なのも時系列の配本を意識していて、巻二が「春歌下」巻三が「夏歌」。。という順番ですし、たとえば恋の歌(巻十一~十五)も片思いから恋の成就、そして失恋。。と、恋の経過を追って歌を並べてあります。<さらに余談…巻十二「恋歌二」の冒頭には片思いをする小野小町が「夢」の中で彼に会う歌が三首連続して並べられています。これまた興味深い。。>

前述のように旧暦では立春と元日はほぼ重なっているのですが、それは「ほぼ」であって、実際には最大半月のズレがありました。では貫之の「袖ひぢて」の歌が巻一の冒頭を飾る歌ではなくて第二首目だとすると、晴れて一等賞を勝ち取ったのは誰の、何という歌なのかというと。。それはこの「ズレ」によって、まだ年が明けないうちに立春の日を迎えてしまった、いわゆる「年内立春」を詠んだ次の歌なのでした。

年の内に春はきにけりひとゝせを去年とやいはむ今年とやいはん(在原元方)

う~ん、序文まで書いた『古今和歌集』の有力編者だった貫之も、もう一つアイデアでは元方さんに及ばなかったか。。

『氷室』。。本格的な脇能(その7)

2008-09-08 01:43:00 | 能楽
ワキ「謂れを聞けば面白や(正へ直し)。さてさて氷室の在所々々。上代よりも国々に。あまた替はりて有りしよなう。
シテ「まづは仁徳天皇の御宇に。大和の国闘鶏の氷室より。供へ初めにし氷の物なり(ワキへ向き)
ツレ「又その後は山陰の(直し)。雪も霰もさえ続く。便りの風を松が崎。
シテ「北山陰も氷室なりしを。
ツレ「又この国に所を移して。深谷もさえけく谷風寒気も。
シテ「便りありとて今までも。
シテ、ツレ「末代長久の氷の供御のため(ツレへ向き合い)。丹波の国桑田の郡に(ワキへ向き)。氷室を定め申すなり(二足ツメ)。

前掲の前シテとワキの問答の文句は全体の3分の1ぐらいですが、この問答自体も3つのトピックに分けられると思います。前掲の部分は氷室というものが創始された由来について語られたもので、今回ご紹介する部分はその後制度化された氷室が歴史的に場所を変えて設けられたことを表します。

「まづは仁徳天皇の御宇に」云々は『日本書紀』「巻第十一 大鷦鷯天皇 仁徳天皇」の六十二年の項(西暦374年)に見える以下の部分(読み下し=ぬえ)のこと。

この歳額田大中彦(ぬかたのおおなかつひこ)皇子闘鷄(つげ)に猟したまふ。時に皇子自ずから山に上り望むに野中に物有り。其の形廬(いを)の如し。仍ち使者を遣わして視せしむ。還り來りて曰く、窟也と。因ち闘鷄稻置大山主(つけのいなきおおやまぬし)を喚して問ふて曰く、其の野中に何者ぞ有ると。啓して曰く氷室也と。皇子曰く、其の藏るは如何に。亦た奚んぞ用せしむ。曰く土を掘ること丈餘り。草を以って其上を蓋ひて、茅萩を敷き敦む。氷を取りて以て其の上に置く。既に夏月を經れども消ゆることなし。其の用ふること即ち熱月に當ては水酒に漬て用ふ也。皇子則ち其の氷を將ち來して御所に獻ず。天皇之を歡び、自ち是より以後冬季に當る毎に必ず氷を藏し、春分に至りて始て氷を散す也。

冷蔵庫のない時代夏に涼をもたらす氷は貴重品で、しかも製氷技術もない時代は天然の氷を採取して氷室に貯えたもので、その氷はもっぱら権力者の専有物で、氷室を管理する職制「主水司」(もんどのつかさ)は明治になって消滅するまで存在していました。貯蔵するのも運ぶのも、そりゃ大変だったでしょうね。。

『枕草子』には段に「あてなるもの」として

 薄色に、白襲の汗衫。
 かりの卵。
 削り氷に甘葛入れて、新しき鋺に入れたる。
 水晶の数珠。
 藤の花。
 梅の花に、雪の降りかかりたる。
 いみじううつくしき稚児の、苺など喰いたる。

と記してあります。あてなるものとは「品よく美しい」というような意味でしょうか。『源氏物語』にも薫が女一宮ら女房たちがくだけた様子で氷を割って涼んでいるさまを垣間見るシーンが出てきます。結構宮中では良い生活をしていたんですね~

大和の闘鶏に氷室を設置した、ということですが、その後都が遷されるとともに、都に近い距離で地形が適した土地を氷室と定めるようになり、それは各地に作られたようです。「便りの風を松が崎。北山陰も氷室なりしを」とあるのはいまの京都市左京区にある松ヶ崎という町や、北区の西賀茂氷室町のあたりと推定され、氷室町にはいまでも氷室の跡が残されているそうです。また京都にはそのほかにもいくつかの氷室が設けられたし、近畿圏にも多くの氷室が作られました。

「丹波の国桑田の郡に。氷室を定め申すなり」という文言、すなわち能『氷室』の舞台となる丹波の氷室ですが、10世紀の『延喜式』に氷室についての規定の中に出てきます。それによると国が管理する氷室は丹波を含めて次の10箇所にのぼっていました

山城=葛野郡 徳岡、愛宕郡 小野・栗栖野・土坂・賢木原・石前
大和=山辺郡 都介(←つげ)
河内=讃良郡 讃良
近江=志賀郡 部花
丹波=桑田郡 池辺

こうしてみると京都に近い山城国の、わけても愛宕郡が氷室のメッカだったようで、また能に出てくる氷室山という山も全国に多く存在するので、なぜ能が丹波・桑田郡の氷室を舞台に選んだのかがよくわかりません。

面白いのは、毎年元旦に氷室の氷の厚さを調べて、その年の豊作を占ったのだそうで、これは能『氷室』で前シテがサシの中で謡う「氷に残る水音の雨も静かに雪落ちて。げに豊年を見する御代の。御調の道も直なるべし」という文句に反映されているのかもしれませんですね。

『氷室』。。本格的な脇能(その6)

2008-09-07 01:21:18 | 能楽
さて脇能でシテおよびツレがワキと問答を交わす定位置である正中(シテ)と角(ツレ)に着いて、問答が始まります。問答の中はすべての能が基本的には同じ形式で、ワキは基本的にシテの方を向いたまま、あるいはツレが発言するときにはその方を向く程度。またツレも基本的に正面に向いたまま(少し左に受けて立つ流儀、あるいは家もあり)、ワキに向けて発言がある場合はワキに向き、またシテと連吟する場合はシテと向き合います。

それに対して、シテは少々動きがあって、自分の発言のときはワキへ向き、またワキの文句を聞いているところでは正面に、見所の方へ向き直ります。またワキへ対しての発言であっても、重要な文句とか、話題が一般論におよぶところなどは正面に向いて発言し、またワキに対して言葉を強調する、あるいは念を押す、というようなところではワキに向けて二足詰める、などの型があります。そのほか、当たり前ですが自分たちの位置から見える景色などに言及する場合にはその方角(正面とか、斜め右前方とか)に向きます。

ワキ「いかにこれなる老人に尋ぬべきことの候。
シテ「此方の事にて候か何事を御尋ね候ぞ(とワキへ向き)
ワキ「おことはこの氷室守にてあるか(直し)
シテ「さん候氷室守にて候(ワキへ向き)
ワキ「さても年々に捧ぐる氷の物の供御(直し)。拝みは奉れども在所を見る事今始めなり。さてさて如何なる構へによつて。春夏までも雪氷の消えざる謂れ、委しく申し候へ。
シテ「昔御狩の荒野に(ワキへ向き)。一村の森の下庵ありしに。頃は水無月半ばなるに(直し)。寒風御衣の袂にうつりて。さながら冬野の御幸の如し。怪しみ給ひ御覧すれば。一人の老翁雪氷を屋の内にたたへたり(ワキへ向き)。かの翁申すやう(直し)。夫れ仙家には紫雪紅雪とて薬の雪あり。翁もかくのごとしとて。氷を供御に備へしより。氷の物の供御始まりて候(ワキへ向き二足ツメ)。

『氷室』は問答が長い能です。ここに挙げたところまでで問答の3分の1ぐらいでしょうか。「立て板に水を流すように」と古来言われ、心持ちをせず、真っ直ぐに、サラリと、スカッと爽やかに謡い舞うのが身上とされる脇能にしては、「語リ」まで用意されているとは。。

で、脇能で「語リ」のある能といえば真っ先に『賀茂』が思い浮かぶと思いますが、『賀茂』と『氷室』のほかに「語リ」を持つ脇能が他にあるのかどうか。。調べてみました。結果は『道明寺』と『江野島』にもやはり「語リ」がありました。意外にあるものなんですね。

長い問答、語リ、そしてクリ・サシ・クセ・ロンギをきちんとすべて備えた前シテの体裁。。稽古をはじめた ぬえは、『氷室』という能はなんて意図的に本格的に作られた脇能なんだろう、と思いました。『氷室』には早笛こそないものの、シテが舞働を舞う脇能は『竹生島』などシテが龍神役の曲に多く見られて、こういう曲は総体に少し「軽く」作ってあるのかと思っていましたが、上演の珍しい曲まで視野に入れると、案外それは偏見であったようで、龍神物の脇能でも『江野島』『和布刈』『九世戸』はクリ・サシ・クセ・ロンギを備えていて、ちょっと様子の違う『玉井』もその構成は同じく重厚に作られています。龍神は脇能では後ツレとして登場する事も多いので『竹生島』のように軽快な役かと思いきや、いざ龍神が後シテに据えられた脇能はすこぶる重厚に作ってある曲ばかりで、むしろ『竹生島』の「軽さ」の方が異質なのです。

一方、『氷室』のようにシテが龍神ではないけれども舞働を舞う脇能を見てみると、後シテが大飛出の面を掛けて舞働を舞う『賀茂』は、前シテが女性というだけでも異質なのにクリ~ロンギまでが一切なくて、その代わりにヨワ吟の長い上歌があるだけ。『嵐山』は前シテと前ツレが尉と姥という脇能の典型であるのに、やはり『賀茂』と同趣向のヨワ吟の上歌があり、その上歌が終わると同時に前シテは中入してしまうという略式で、しかも後シテは舞働さえ舞いません。

『氷室』は後シテが「舞働」を舞うのに龍神でもなく、それでいて重厚な構成を持っている。。こういう脇能の類例を探してみたところ、観世流では前場を略して祝言能扱いになっている『金札』を除けば、わずかに『逆矛』一番だけ、ということがわかりました。しかも『逆矛』は『氷室』とは後シテが「小ベシ見」の面を掛ける点でも一致。ふたつの曲の間にはなにか関連があるのかもしれません。。が、今回はそこまで調査はできませんでした。これは今後の宿題とさせて頂きます。。

『氷室』。。本格的な脇能(その5)

2008-09-06 00:18:20 | 能楽
さて「真之一声」の登場囃子で前シテと前ツレが姿を現すわけですが、ツレは先に出て橋掛り一之松で振り返り、シテは幕際の三之松に止まります。すべて脇能に共通の登場の仕方で、『嵐山』ともまったく同じ型です(詳しくは『嵐山』の当該箇所をご覧下さい)。二人が橋掛りで向き合って「静メ頭」となり、そこで二人は足遣いがあって、それから特定の囃子の手を聞いて謡い出し。すべて『嵐山』の通りです。

シテ、ツレ「氷室守。春も末なる山陰や。花の雪をも。集むらん。
ツレ「深山に立てる松蔭や。
シテ、ツレ「冬の気色を残すらん。

シテとツレはどちらも朳(えぶり)と呼ばれる雪掻きの道具(前述)を右肩に担いで登場し、定型の文字数の「一セイ」を上げます。上記の詞章の大意は「我ら氷室守(が雪を掻く仕事は)、いまはすでに春も終わりで、まるで雪が降り積もったように山陰に散り敷く桜の花をも掻き集めるかのよう。深山に立つ松の蔭にはまだ冬の気色も残っているのであろうか」といったところ。ところで稽古をしていて気がついたのですが、先日勤めた『嵐山』では季節は桜が満開の春も真っ盛りでした。さてさてそれから2週間が経とうとしているこの時、ちょうど散った桜が雪のように積もる初夏の季節の『氷室』を ぬえ、勤めるのですね~。相次いで勤める二つの舞台の時間経過としてもちょうどよい感じで季節が移り変わりました。もっとも。。現実世界ではまだまだ残暑が厳しくて。。舞台の時間設定からはちょうど四ヶ月ほどズレているのではありますが。。

「一セイ」のあと、囃子の「歩ミアシライ」の手に乗って、シテとツレはするすると舞台に入ります。ただしシテだけは肩にした朳を下ろして右手に提げ持ってから舞台に入ります。ツレは先に舞台に入り正中に立ち、シテはそのあとに気をかけて舞台常座に入り、三足下がってトメ。以下二人は向き合ってサシ・下歌・上歌を連吟し、その上歌の終わりに二人は立ち位置を入れ替えて、ツレは常座にて後見に朳を渡し扇を持ち角へ出、シテは正中に正面向いて立ちます。すべて脇能の定型の型です。

(余談ながら、観世流大成版の謡本の『氷室』の当該の場面の挿絵では、ツレが正中に立ってシテと向き合っている、つまりサシ・下歌・上歌を連吟している場面であるのに、ツレはすでに朳を持っておらず、扇を持って謡っていますね。これは上記の通り脇能の登場場面の型はすべて定型ですから、挿絵が間違いなのです。じつは謡本の挿絵には時折。。ですが間違いが見受けられますね。以前、演者の対談で『卒都婆小町』の謡本の挿絵の間違いが指摘されて、しばらくして謡本の挿絵が改訂されたこともありました。ですから『卒都婆小町』では古い謡本と新しい謡本では挿絵がちょっと違うのです。ぬえが持っている『氷室』の謡本の挿絵も、その後改訂されたかも、ですね)

シテ「夫れ一花開けぬれば天下は皆春なれども。松は常磐の色添へて。
シテ、ツレ「緑に続く氷室山の。谷風はまだ音さへて。氷に残る水音の雨も静かに雪落ちて。げに豊年を見する御代の。御調の道も直なるべし。
シテ、ツレ「国土豊かに栄ゆくや千年の山も近かりき。
シテ、ツレ「変わらぬや。氷室の山の深緑。氷室の山の深緑。春の気色はありながら。この谷陰は去年のまゝ三冬の雪を集め置き。霜の翁の年々に。氷室の御調守るなり氷室の御調守るなり。

ここにはじめて「御調」(みつき)という言葉が登場します。「調」とは「つき」すなわち貢ぎ物のことで、「租庸調」の「調」です。御調とはとくに天皇に献上する貢ぎ物のこと。このサシ~上歌の内容は、賢王の善政を讃える心情にあふれていますですね。

『氷室』。。本格的な脇能(その4)

2008-09-05 02:05:36 | 能楽
とは言ってみたものの、しかしながら実際問題として男ツレである前ツレを天女の化身と考えるのはどうしても無理がありますよね。で、ここで考え方を変えてみると、後場に登場する役が、すべて前シテの化身とは考えなくてもよい、ということにも気がつきます。すなわち『氷室』に登場する天女は、とくに前場に登場してワキに対して積極的な関わりを持つ必要がない役、とも言えるのです。

思えば主に脇能に数多く登場する後ツレの天女は、主神たる後シテの配下のような存在で、それ自身が強烈な個性を待った役ではない事が多いですね。もちろん能の中で個性的な天女の役もあって、『賀茂』では後ツレ天女は「御祖神」つまり後シテ別雷神の母神という設定ですし、『竹生島』では弁財天ですから、むしろ後シテの方がツレの守護神のような性格です。

がしかし、これらの能でもやはりツレとしての天女は能の演技の比重としては、後シテのそれに比べるべくもなく、やはりシテとツレは演技の上では主従の関係になります。つまり前シテが後シテの神の化身である場合は、あくまで前場のシテは主神としての後シテの来現を予言するわけで、主神に付随する役の天女までがその再登場を約束する必要はないのです。

ところで、主に脇能に登場する天女はどのような理由で舞台に登場するのでしょうか。舞台の彩り。。という面もあるでしょうが、じつは彼らは多くの場合舞台上で重要な仕事を受け持っています。『賀茂』であれば、これはいろいろと型も謡も多いツレではありますが、やっぱりこの役が必要なのは「登場して、そして去る」という事に尽きると思います。「御祖神は糺の森の森に飛び去り飛び去り入らせ給へば」と去る天女。ぬえはここに上下二つの賀茂神社が一体であることが強調されていると感じています。『嵐山』では子守・勝手の明神が蔵王権現と「同体異名」であることを示すために三人の登場人物がわざわざ設定されているのです。ツレの天女は、型や謡では活躍しなくても、存在そのものに意味がある場合が多いです。そして『氷室』では後シテが登場の時から持っている氷を処理する役目を天女が受け持っていて、後シテから氷を受け取り、それを幕まで運び去る役割を持ちます。

それでもツレ天女というのは舞台上の美的効果は抜群です。ぬえは思うのですが、主神が衆生の前に現れる場合には、予兆のような奇瑞が現れると古来言われています。『羽衣』のワキが「虚空に花降り音楽聞こえ、霊香四方に薫ず」と言うのがそれで、すなわち『嵐山』でも『氷室』でも、恐ろしげな顔立ちの荒ぶる神が影向して舞台狭しと飛び回っていても、じつはその周囲には芳香が立ちこめ、飛天が奏でる音楽が満ちあふれているのです。ツレの天女は舞台上に「存在」する事自体に意味がこめられ、そのうえで美しい姿で舞を舞う飛天の象徴というか、舞台上の彩りの面での効果も期待されている、いわば二重の意味において登場している役なのだろうと思いますですね。

本題に戻って、では『氷室』の前ツレの「男」が天女の化身ではないとしたら、彼はいったい誰なのでしょうか。『氷室』の本文を読んでみると。。あ、キーワードを発見しました。前シテが中入りする直前のロンギの中にシテのこういう言葉があります。「人こそ知らねこの山の、山神木神の氷室を守護し奉り、毎夜に神事あるなりと」。。同じく前シテがワキに対して言う「暫く待たせ給ふべし、とても山路のおついでに、今宵の氷の御調供ふる祭ご覧ぜよ」という言葉の「氷の御調供ふる祭」を司るのは「この山の山神木神(さんじん、ぼくしん)」。。複数の神々であるとも読むことができます。

もとより『氷室』の後シテは「氷室明神」と仰々しい名前で呼ばれていますが、「山神」。。『養老』の後シテと同じくその土地を守護する土着の神なのですね。山の霊気そのものが凝り固まって神となったような神で、であるからこそ『氷室』の前シテは『高砂』のようにワキに対して説教をするような威厳とはまた違っていますね。神孫とされる天皇を賛美し、尊重する立場が徹頭徹尾『氷室』には貫かれています。おそらくこういう土着の神が数多く集まって供御(ぐご=天皇の食事)を産する土地を守護しているのが『氷室』の後場のありさまなのでしょう。こう考えれば、前シテも後シテも、誰ということもない「山神、木神」の一人なのかも。

『氷室』。。本格的な脇能(その3)

2008-09-03 01:35:24 | 能楽
前シテと、それと同時に登場する前ツレの装束付けは次の通りです。

シテ…面=小尉、襟=浅黄、尉髪、着付=小格子厚板、白大口、水衣、緞子腰帯、尉扇、朳(えぶり)
ツレ…直面、襟=赤、無地熨斗目(または無色厚板)、白大口、縷水衣、男扇(墨絵)、朳

シテの出で立ちは、これまた まったく脇能の定型そのもの。『養老』のように前シテが樵のように身分の低い役の場合は大口を穿かない演出もあるのですが、それ以外はすべての脇能の前シテは同じ扮装です。違うのはわずかに持ち物程度ですね。『氷室』では「朳」(えぶり)と呼ばれる、長い柄の先に四角い板を取り付け、地面を掻きならす道具を肩に担いで登場します。

『嵐山』では前ツレは姥でしたが、『氷室』は若い男。やはり氷室で重い氷塊を扱うのですから姥では具合が悪いです。そしてまた、この前ツレの扮装は市井の男子の典型的な姿で、着流しではなく大口を穿いているところで脇能のツレとしての威厳のようなものを表現しています。

面白いな、と思うのは、脇能の前シテは、必ずツレを伴って登場することでしょうか。『高砂』であれば前ツレは姥で、前シテとともに住吉・高砂の相生の松の精ですから、これは合理です。また『嵐山』も子守・勝手の夫婦の神の化身ですから『高砂』と意味は同じ。ところが脇能の中にはさてこのツレは本性は何者なのか、よく判らない者も登場するのです。『養老』しかり、『賀茂』しかり(←これは役割が複雑ですが。。)、『氷室』もその例でしょう。後シテが一人しか登場しないので、この前シテをその化身と考えると、ツレがいったい何の化身なのかわからないのです。

それでも、まあこういう曲では前シテは「じつは私は○○の神の化身。今宵私の本当の姿を見せよう」とは言わないで中入しますね。『養老』ではあくまで樵の親子、『氷室』では老若の氷室守。それ以上の説明は、少なくとも本文にはありません。そうであれば前シテとツレは現実の人間で、当地に住んでいる者の知識として「こういう神聖な土地なのだから奇跡が起きるかもしれないよ。しばらく待っておいでなさい(私は帰るけど)」と言って去って行くだけなのかもしれません。

でも、多くの脇能の中入で、前シテ、あるいは前ツレ、またはその両人が「来序」と呼ばれる荘重な囃子に合わせて足遣いまでして中入する事を考えると、この前シテや前ツレを一般人と考えるのには無理もあります。ましてや『氷室』では前シテは作物の中に中入してしまい(来序を踏むのはツレひとり)、その作物から後シテが登場することを考えると、この前シテは後シテの化身としか解釈のしようがないと思いますね。そうなると、なぜ脇能の前シテは必ずツレを伴って登場するのか、という疑問がわくのが当然ですが、この答えは ただ一つ、前シテが登場する囃子である「真之一声」が、ツレが登場しているのを前提にしているから、なのです。

あまり説明が些末になっても、とは思いますが、「真之一声」はツレが一人で謡うパートを織り込んで作曲がなされているのです。正確に言えば「真之一声」でシテ(とツレ)が登場して橋掛りで向き合って、さて二人が謡い出しますが、その後の、つまり「真之一声」の演奏が終わってからの場面も、囃子方が打つ手組があらかじめ定められていて、その中にツレがソロパートを謡うために用意された演奏の部分があるのです。そういうわけで前ツレは必ず登場してもらわないと、「真之一声」とその後の定められた手組の演奏が打てなくなってしまうのです。

では『氷室』の前ツレは、じつは誰なのか。。これは後に登場する天女の、その化身と考えるより仕方がないと思います。。

『氷室』。。本格的な脇能(その2)

2008-09-02 10:41:40 | 能楽
前回、ぬえは過去に脇能を勤めたのは『高砂』の1回だけ、という話をしました通り、今回の『氷室』は ぬえにとってあまり慣れない脇能の上演です。ところが、先日の「狩野川薪能」で同じ脇能の『嵐山』を勤めたばかり。まさか1ヶ月も経たないうちに立て続けに脇能を2度も勤めるとは思いも寄りませんでした。。こんなこともあるのね~。では例によって能『氷室』の舞台上の演技を台本を基にして解説してゆきたいと存じます。しばしお付き合いくださいまし~(注=おワキの詞章は今回の上演に従って下掛り宝生流の本文に拠っています)

囃子方と地謡が座着くと、後見によってまず一畳台が大小前に出され、続いて引廻しを掛けた山の作物が一畳台の上に据えられます。こうして作物が舞台に出されると大小鼓は床几に掛けて、すぐに「真之次第」が演奏されます。

このあたり、同じ脇能ということで『嵐山』とまったく同一の舞台進行になります。本当に判を押したように同じなんですよ。おワキの勅使は紺地狩衣に白大口という装束で頭には大臣烏帽子をかぶり、赤色の上頭掛けが飾られています。ワキツレの随行員はワキと同装ながら狩衣の色は赤、上頭掛けの色は萌黄。おワキは登場の場面と舞台に入ってからの「速メ頭」で両袖を広げて伸び上がる型をし、やがて舞台に入った一同は向き合って「次第」を謡い、地謡が同じ文句を繰り返す「地取」を謡い、さらにワキ一同はもう一度文句を繰り返して謡う「三遍返シ」が謡われ。。まったく『嵐山』と同じ装束、同じ型で、違うのは謡っている詞章ぐらいのものです(詳しくは『嵐山』の紹介記事を参考になさってください)。

ワキ、ワキツレ「八洲も同じ大君の。八洲も同じ大君の。御影の春ぞ長閑けき。
地謡「八洲も同じ大君の。御影の春ぞ長閑けき。
ワキ、ワキツレ「八洲も同じ大君の。八洲も同じ大君の。御影の春ぞ長閑けき。

どうも今回も世界は平和なようで。。(^◇^;)

「三遍返シ」のあとおワキは正面に向き直り、「名宣リ」を謡います。

ワキ「そもそもこれは亀山の院に仕へ奉る臣下なり。さても我丹後の国九世の戸に参り。既に下向道なれば。これより若狭路にかゝり。津田の入江、青葉後瀬の山々をも一見し。それより都へ上らばやと存じ候。

勅使は丹後の九世戸に出かけていますが、九世戸とは有名な天橋立にある地名。この勅使は天橋立に観光に出かけたのかというと、じつはそうではなくて、ここには文殊菩薩信仰の霊場があるのです。その文殊信仰を扱ったのが、やはり脇能の稀曲『九世戸』で、おそらく勅使は文殊菩薩を拝する命を受けて丹後にやって来たのでしょう。その帰途、若狭、すなわち現在の福井県を通って、かつてその国府だった小浜市(例の米国大統領選挙に関連して有名になった、あの市)の名所を見物しながら都へ戻ろう、というのが勅使の旅行プランです。

ワキ、ワキツレ「花の名の。白玉椿八千代経て。白玉椿八千代経て。緑にかへる空なれや。春の後瀬の山続く。青葉の木蔭分け過ぎて。雲路の末の程もなく。都に近き丹波路や。氷室山にも着きにけり氷室山にも着きにけり。
ワキ「急ぎ候程に。これははや氷室山に着きて候。人来たつて氷室の謂れを尋ねうずるにて候。
ワキツレ「然るべう候

「道行」と呼ばれる紀行文を一同向き合って謡いながら、その中でワキは正面に少し出て、また元の座に戻ります。この数歩で一行は丹波の氷室山に到着したことを表します。いずれも『嵐山』とまったく同じ定型の型ですが、これは脇能に限ったことではなくて、多くの能に共通して用いられる定型の型です。

このところで一行はひと休み、現地の人が通りかかるのを待って、氷室について尋ねようと相談がまとまり、一行は脇座以下に着座、前シテの登場となります。

『氷室』。。本格的な脇能(その1)

2008-09-01 02:14:00 | 能楽
さてさて伊豆の薪能で『嵐山』を勤めたばかりの ぬえですが、もう2週間後には東京で、『嵐山』と同じ脇能の『氷室』(ひむろ)を勤めさせて頂きます。

じつは ぬえ、脇能はほとんど勤めたことがありませんで。。ずっと以前、千葉県の松戸市でのホール能で『高砂』を勤めた経験があるだけ。。ですから伊豆の国市での『嵐山』が二度目の脇能だったのです。あれ? ということは。。能楽堂で脇能を勤めるのはこの『氷室』が最初なのか。。!

おかげさまで、『嵐山』の稽古をしているときにも、脇能の決まり事や「真之一声」での前シテの登場の仕方など。。すっかり忘れている事に気づきました。。地謡としては脇能も何度となく出演しているので、脇能の囃子の構造とか、見慣れている、聞き慣れている部分はよく承知していたつもりなのですが、いざ自分がシテを舞うとなると、あれ? どっちの足からだっけ。。なんて思ったり。。(恥)

で『氷室』ですが、まずは遠い曲です(遠い、というのは楽屋用語で「上演頻度が少なくて珍しい曲」のこと)。「遠い」ということは文句をしっかり覚え直さなければならない曲ですが、それでも ぬえは『氷室』の地謡を2度だけ謡ったことがあるので、まあまあ地謡の文句は頭の中に残っていました。

ただ、『氷室』を稽古していて思うのは、約90分の上演時間に象徴されるように「長い曲」でもあります。で、よくよく謡本を眺めてみると、この曲、かなり脇能としては本格的な構成に作られていることに気づきました。脇能と言ってもいろいろあって、『高砂』や『弓八幡』のように後シテが「邯鄲男」の面を掛けて「神舞」を舞う曲は、なんというか脇能の中でも「本格」という意識が能楽師にはあります。また一方、『玉井』や『白鬚』など後シテが悪尉系の面を掛けるや、『老松』『白楽天』のようにシテが「真之序之舞」を舞う曲は荘重で、「邯鄲男」の曲よりもさらに「本式」。重厚で上演時間もどうしても「長く」なります。

それに対して後シテが「舞働」を舞ったり「早笛」で登場する曲は、「邯鄲男」や「悪尉」の面、あるいは「皺尉」を掛けて「真之序之舞」を舞う曲よりも、少し「軽い」というような印象があるのです。こういう曲には『竹生島』のような龍神が主人公の能とか、先日の『嵐山』のような曲がありますが、いずれも上演時間は1時間に足りないほどです。

ところが『氷室』は「小ベシ見」の面を掛けて「舞働」を舞っていながら、90分と上演時間の長い能です。地謡で謡っていて、さほど長い印象は ぬえにはなかった『氷室』ですが、それは見た目の舞台の華やかさに時を忘れていたのですね。たしかに地謡を覚えるたびに前シテの部分の長さに苦しんだ記憶はあるのですが、今回稽古をしていても、やはり前シテが長い。。すなわち、本格的な脇能としての格式を、略さずに貫いて作られている能なのだ、という事に気がつきました。同じ派手なアクションが見せ場の『嵐山』と『氷室』。それなのに上演時間は1.5倍の開きがあります。作者の個性の違いかもしれません。面白いことだと思いますね~。

今回の『氷室』の上演では、もう一つ面白いことも。

後ツレの天女ですが、じつは今回は師匠のお計らいで、小学4年生の チビぬえが勤めるのです。「天女之舞」を舞うのは先日の『嵐山』と同じで、言うなれば狩野川薪能が チビぬえにとって前哨戦だったのです。薪能では短く詰めた「天女之舞」を、今度は本式に舞わねばなりません。じつは、かくして チビぬえはこの夏は稽古三昧で、とても夏休みという雰囲気ではありませんでした。。