<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

こちらの不如意は仏さまの如意

2014年10月07日 23時39分10秒 | Weblog
「如意なるものあり。不如意なるものあり」
これを清沢満之がさぶろうに耳打ちした。よって、そのご親切を拝受した。あのなあ、さぶろう、思うて思い通りになるもんと、そうはならんもんとがあるんだよなあ、と。

如意なるものは、だから、如意にしてええ。不如意なるものは? どうにもならんもんはどうにもならん。ほっておいてええちゅうこっちゃなあ。

こちらの不如意は仏さまの如意の中。こちらの手が届かぬところは仏さまの領域なんだろうなあ。疾病不如意。生死不如意。台風不如意。光明不如意。仏法仏智不如意。

それをそうせしめていてくださる仏さまの意に従えば、不如意といへどもすなわち如意であった。

エノコログサが夕日に染まっているので、赤い。万物はうっとりして秋が深まっていく。秋が深まるのに、こちらの如意は無用であった。ああ、よかった。これでよかった。手放しでよかったのだった。
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もう寝ますか。そういたしましょうね。

2014年10月07日 23時19分33秒 | Weblog
11時半を過ぎました。もう寝ますか。そういたしましょうね。お嬢さんがそう言った。このお嬢さんは昼間林の中で偶然出逢ったお嬢さんである。ふたりはしばらく話に興じてわたしたちになった。わたしたちはいっしょになって林が切れるところまで歩いた。それっきりだったのだが、あまりにも清楚だったので、その後も清楚なままに記憶の鳥籠に住まわせておいたのだった。明かりを消すとお嬢さんはいなくなった。さみしくなった。
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さぶろうを得てその場の風景が完成した

2014年10月07日 22時59分56秒 | Weblog
小倉城庭園の対象地に八坂神社がある。さぶろうはそこへ詣でた。白い大きな鳥居を潜って。傍らへ目を遣ると、城の石垣の底辺が神社の下腹に中る沼地に刺さっていた。一面の蘆が風に吹かれて瞑想をしているところだった。さぶろうは目敏いので目敏くこれを見た。そしてこれに従ってしばらく立禅をした。立ったままのニルバーナだった。それまで平安を食べていた神鳩が下りて来てしきりに鳴いた。これでその場の風景が完成をした。
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遠見ヶ鼻の妙見崎灯台

2014年10月07日 22時36分51秒 | Weblog
遠見が鼻岬の突端に立つ妙見崎灯台のところまで自転車を走らせた、森の中の細い小径を縫って。荒々しい響灘が荒磯を従えて風を造っているところだった。さぶろうはこれに吹かれてやった。すると一段高く大きく潮騒が踊った。これに呼応して深々に被ったさぶろうの帽子の、端〈つま〉がぴろぴろ音を立てて、海と陸地の接点が織り成す造化の妙に賞賛を贈った。
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感動料1億円

2014年10月07日 22時13分58秒 | Weblog
感動料1億円を支払おうと言ったのだが、あっさり、そんなもんいらぬと言われてしまった。宇宙の肝っ玉の大きさを現すほどのどでかい落日が、完全燃焼して海の水平線に豪快に落ちていった。空がこれに呼応して真っ赤に熟れた。さぶろうは払わずにすんだ1億円を、闇を飲んでどどうどどうと打ちつける波間の白波にくれてやった、惜しげもなく。
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もったいない話である

2014年10月07日 20時28分34秒 | Weblog
仏を信ずる者は、仏の住む世界に住む者である。

これは傲慢な言い方だろうか。傲慢ではありたくない。

仏を信ずる者は、仏がわたしといっしょに住んでいると信じている。

もっと突き詰めて言えば、わたしたちのために仏がいるのである。

わたしたちがいるから、そこに仏が存在できるのである。

それほどに、わたしたちを立てていてくれるのである。もったいない話である。
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常寂光

2014年10月07日 17時39分19秒 | Weblog
小倉城庭園を訪ねた。庭園に面したところに城主謁見の館があり、奥の間に、墨痕鮮やかな「常寂光 じょうじゃっこう」の扁額が掛けてあった。思わず平伏したい心持ちになった。

常寂光土は仏の住む真理世界のことである。常は永遠不変。寂は涅槃寂静。光は光明遍照。土は仏智浄土。ここでは眼前の庭園がそれか。

仏さまがこの常寂光土を独り占めしておられるはずはない。手招きをしておられるはずである。ここを常寂光土にして暮らしなさいと教えておられるはずである。

従って、「見よ見よ見よ、ここを常寂光土として見よ」「ここは常寂光土なり」「あなたが立っているところが常寂光土です」と如来が語りかけておられるような気がして、平伏したい心持ちになったのである。

仏を信ずる者は、仏の住む世界に住む者である。とすれば、ここはまぎれもなく常寂光土のはずである。仏の住む世界は親さまの家である。遠慮は要らぬのである。最高至上の世界を、わたしたち衆生に与えておられるはずである。
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さぶろうに大楽あり

2014年10月07日 11時11分55秒 | Weblog
観無量寿経の中に「慈心不殺 じしんふさつ」とある。どう読み解けばいいのか。分からない。

慈心は殺さず、か。

慈心あれば殺さず、か。

慈心して殺すことなかれ、か。

殺さざるを慈心という、か。

(..;)

慈心は、慈悲する心であろう。大慈大悲は如来心である。さぶろうにはこれはない。

故に、主語と目的語を補って、こう読めて来る。

如来に慈悲心あって衆生を殺さざるなり、と。

さぶろうが殺されずに生きているのは如来の大慈大悲に拠るが故なり、と。

(^_-)

殺すことなかれは利他の大行である。これができているか、さぶろう。虫も殺さぬ顔をしていながら、他を殺して己を生かすばかりの日常ではないか。では観無量寿経に背いていよう。

(^^;)

さぶろうは、だから、この利他行は失格者である。

都合のいい読み方だが、だから、これを如来の慈悲心あるが故に、さぶろう殺されず、と読んで、楽を決め込んだ。他力頼みの大楽である。

これから、海岸線をサイクリングをしてほっつくことにする。
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若松に来ている

2014年10月07日 10時57分15秒 | Weblog
真下に海がある。岩礁に波が押し寄せて白濁する。ここは岬の突端である。沖へと広がるにつれて海の青は深くなる。そうだった。地球を平たくして丸め込んでいる正体が、不変に働き続けているのだった。今回の旅には自転車がお供をしている。風と雨は上がった。快晴。しばらくサイクリングをして大地の爽快を手繰り寄せよう。今夜もここに泊まる。さぶろうは若松に来ている。
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