台風19号が吹き返しをして通り過ぎたときに、紅葉の老木がどさりと折れて倒れてしまった。父の父が小さい頃に植えた木だというから、我が家の庭先に100年以上も立っていたことになる。幹まわりも株まわりも相応に大きかった。老木は中が空洞になっていたが、梢にはところどころ青々とした葉が繁っていた。
さぶろうがどんなに愚かであってもそれが理由で夕日が水平線に落ちていかないということはない。赤い人参のような夕日が水平線にゆっくり落ちて行った。戸惑いを覚えて雲の一点に留まっていることもなかった。
さぶろうがどんなに社会への貢献度が低劣であるといっても、それが理由で昇る日が地平からこちらへ昇って来られないということはない。昇る日は勢いを付けるようにして天空の高さにまで上り詰めてきた。
さぶろうはそれを眺めて嬉しくなって、百舌鳥が高く高く鳴くように、高く高く指笛を吹いてみたのだった。
相手のこころの深さは自分のこころの深さ以上には読み取れない。読んでいる本にそう書いてあった。そうなのか。
人間と人間との間でもそうであれば、深い深い仏界の智慧の深さ、慈悲の深さをさぶろうが読み取れるはずはない。さぶろうに働きかけてくるハタラキの深さが分かるはずはない。それを酌量して、それでわが意に適うだとか適わないだとかを判断して来たのだ。
死を恐がっているのは、わたしの酌量の小ささに起因するものだったのだ。死をどう見るか。どう見てどう安堵するか。
わたしのいのちが仏界のハタラキによって活動を得ているように、そのようにわたしの死もまた仏界のハタラキに依拠しているのだが、わたしはそのハタラキのうちにある死を恐れている。それはただわたしの思量の浅さだったのか。仏界の深さにわたしの深さが及ばなかっただけのことだったのか。
しかし、それしかないではないか。それでいい。仏のハタラキを読み取れないほどのわたしの小さな度量計でいい。それで何事もない。これまでもずっとそうではなかったか。それで済ましてきたのではなかったのか。
安堵や安心は仏界への距離に比例しているのではないか。さぶろうはふっとそう思った。距離が近くなるにつれて安打や安心が深まってくるのではないか。行けども行けどもしかしさぶろうと仏界との距離はそうそう埋まるわけではない。近づくのではなくてただ周辺をぐるぐる回りということもある。
極楽往生というのは、安堵と安心の極楽往生なのではないか。往生をすれば一気に距離が縮まるのではないか。仏に迎え取られて仏界と合一するときに、これまでの恐怖心がすっかり払拭されて、安堵と安心に行き着くことになる。さぶろうはそんなふうに思って見た。
へえ。なっちゃあいないのです。なっちゃあいないのに、ぶつぶつぶつぶつ蟹の泡のように不平と不満の泡を吹いているのです。人様に向かってはできるだけこれを避けようと努力はしているのですが、己の腸の中でこいつが行ったり来たりするのです。さぶろうはこれに付き合っていなければならず、へとへとになります。何が不満なのか。何が不平なのか。曇り顔の曇りが消えません。自分がするべき労働はちっともしていません。それでこうです。これが生きているということか、と疑問を呈します。そうだとかそうでないとか、胸を張って反論ができません。自分を眺めていて情けなくなります。
往生安楽国の安楽はなにゆえか。天を行く風よ、それを聞かせよ。
はい。もうぷつんぷつんと命が切断されることがないからでございます。
大きな大きな宇宙のお命さまと合体合一するからでございます。
億にも兆にも分離してさみしくしていた個々のいのちが大いなる1に合体合一するからでございます。
桔梗が咲いている。白くてひんやりしている。夏の終わりに一度根株の上辺りからばっさり切っておいたら、そこからふたたび茎が伸びてきて、とうとう二度目の花を着けた。さびしいさぶろうを癒やしてあげようという魂胆なんだろうが、その善意が読めないで居る。
世間虚仮 唯仏是真
聖徳太子は虚仮の世間を見るのに仏法の鏡をお遣いになられた
さぶろうは長々と生きてはいるが、まだその鏡を手に入れてはいない
世間是真 唯仏虚仮のままである
これがために
ひとり悲しく考えてうらぶれて暮らしている
山鳩が来ている
雨の音に混じって鳴き声が聞こえてくる
ぶっぽうぶっぽうと聞こえる
仏法最勝なり、仏法最上なり、これを聴いて最勝最上に遊ぶべし
そんなふうにでも鳴いているかに聞こえてくる
最勝最上の仏法があるので
山鳩氏はただ鳴いているばかりで遊んでいられるのだ
これですっかりまわりのすべてと調和をしているのだ
そう思えて来る
山鳩が来ている
山里の樫の林あたりに山鳩が来ている
おはようさん。おはように「さん」をつけるとこれで「おはよう」が人になる。で、どんな人なのかを知りたくなる。男性? 女性? 実在? 非実在? 若い? 若くない? 朝になって登場するからきっと爽やかなんだろう。聞こえては来ないけど、元気溌剌に返事もしてくれているだろう。ま、こんなふうに勝手に想像をたくましくしておこう。一人の自分の相手をしてくれる「おはようさん」。
夜中雨の音が聞こえていたが、朝になってそれも止んでいる。曇り。ヒヨが来て鳴いている。雨が降っている日には外に出て農作業ができない。家の中にいてぼんやりしているしかない。紅茶飴でもしゃぶっていようか。そうしよう。
近郊に「老人憩いの家」のごとき公共施設がある。そこが新しく建て直っているそうな。友人の話によると入浴料は300円。湯船が小さいらしいが、気持ちよく利用できるらしい。重い腰を上げて、午後から行ってみてもいいな。するべきことは他になんにもない。求められていることもない。