日本女子バレーがセルビアと対戦している。2セット目。接戦だ。16対18。2点、開かれている。・・・で、とうとうこの2セット目を取られてしまった。これで1対1。3セット目が始まる。がんばれ日本!
サイクリングができた。嬉しい。最初の折り返し地点までで12kmあった。田手川の堤防に来たらそこから自転車道路が続いていたので、そこをどうしても走りたくなった。で、更に南下した。我が家が遠くなる。自転車道路が尽きてしまった。そこでUターンする。2kmが加わった。来た道をそのまま通るのは気が引ける。で、来たことがない道に道を取った。夕暮れが迫る。背振連山が遠くに見えている。彼処まで戻っていかねばならないのか。力が残っているだろうか。心配になる。しかし、それほど疲れていないようだ。へたばってはいない。帰れそうだ。ペダルを漕ぐ。スピードはさすがに出ない。ゆっくりゆっくりだ。時間がかかる。で、ともかく帰宅した。
あなたに回し向けます。回し向けられたわたしは、それをよろこびましたので、あなたにも回し向けます。回し向けても、回し向けられても、これは一向に減りません。回し向けようとするたびに、そっくり同じ露の珠がふくらんできます。
夕方、夏の日が戻って来た。じっとしていて汗が滲み出る。じっとしておられない。冷水摩擦をした。そして新しいシャツと着替えをした。サイクリングは、日が落ちてからにしよう。
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オーン・アモーハ・ヴァイローチャナ・マハームドラ・マニパドマ・ジヴァラヴァルタヤ・フーン
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オーン・不空成就如来よ、毘盧遮那如来よ、阿閦如来よ、宝生如来よ、阿弥陀如来よ、フーン。
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これは光明真言である。唱えてみる。そしてまた眠くなる。また唱えてみる。今度はそれぞれの音を口から発している如来の名を呼んで。そしてまたもや眠くなる。唱えることができる安寧・平穏とは、かように、いいものだ。
山鳩が、祇園山の山麓あたりで、これも平和を讃えて、続けざまに鳴きだした。ぶっふ・おっほう・ぼっふ・うっふう・ぼあらん・べあらん。
胎蔵界九方便 「第九廻向方便」
所修一切衆善業 利益一切衆生故 我今尽皆正廻向 除生死苦至菩提 帰命頂礼 大悲毘盧遮那仏
そーしゅういっせいしゅうぜんぎょう りけいいっせいしゅうせいこ がきんしんかいせいかいきょう ちょうせいしこしーほーてい きべいていれい たいひひろしゃだふ
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「人々のために自己を尽くす誓い」
おーん。わたしはみずから修したもろもろの善い行いのすべてを、一切の人々のためにみなことごとく廻らし向けよう。どうか、すべての人々の生死の苦しみを除き、みなともに悟りに達することができますように。大悲を具えられた毘盧遮那仏に帰命し頂礼いたします。ふーん。
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仏さまからわたしに回し向けられたのだから、これを人々にも回し向けることができる。 これが廻向(えこう)である。
唯(ただ)仏と仏とのみが乃(すなわ)ち能(よ)く窮め尽くす。仏さまと仏さまが舞台上に登場されている。そして能楽を舞われている。これでよし。わたしの出番がなくても、いい。出番がない方がいい。窮め尽くされたところ=法界(=ここでは能舞台)を掻き混ぜることもない。せっかくの調和を乱すこともない。したがって、わたしは高みの見物(高いところからでは失礼かなあ? じゃ、一段低い客席)に回っている。「見事だ、実に見事だ。完璧だ」などと感歎の手を叩いて見ている。わたしの出番がなければ生きたことにならないのではないか、そういう心配はしないでもいい。見ているだけでいい。それでこちらもわが生を<乃ち能く窮め尽くす>ことになる。
さっきまでは、海というほとけさまと入り日という仏さまであったが、今は光が明るく射して来て、空という仏さまと山という仏さまが、広い広い能舞台に上がっておられる。ここにはどうしたことか幕があって、その幕がもうすぐ閉まる。
ことばの飴をしゃぶっている。ことばは飴にもなる。わざわざ雨の中を出て行って店で買ってくることもない。助かる。糖度は、でも、それほど高くない。高くないから、血糖値が上がることもない。ことばの工場は頭の中にある。ここで製品化される。人に売るものではないから、粗製でも濫造でもかまわない。飴になっていればいい。
とろとろとろしてた。いい気持ちだった。座椅子に坐して足を延ばして。延ばした足には夏用の軽い掛け布団を掛けて。組んだ両腕は机にあずけていた。首はがっくり前に落ちていた。30分ほどのことだった。朝5時に起きて(起きようと意思してではなく、目が覚めてしまって)6時半にはラジオ体操をして、7時半には朝ご飯をした(朝ご飯には蜆の味噌汁が出た)。で、8時半にはもう眠くなったらしい。ガラス戸の向こうの雨は降り止まない。しととんしととんと、軒の庇を雨が太鼓にしている。大した降りではないようだが。隣家の北向きの屋根瓦が濡れて光っている。なんにもしない。することがない。一人で籠もって、どうせ、物思いをするだけだから、居眠りをしたところで値千金を浪費したことにはならない。
あふれさせることにする。するとそこがにぎやかになる。いつもは、にぎやかなのが嫌いなのに。連れてきて連れてきてここをあふれさせる。此処って何処? こころの中の劇場空間。そこで、連れてきた髪の長い人が踊る。スカートを手にとって広げて踊る。スカートの絵柄の赤い薔薇の花がふっと匂って来る。彼女らは歴史を語る。世界各地に受け継がれてきた染物の歴史を語る。語りかけて僕の目を見ている。僕は反応しない。一人がバイロンの叙事詩「ドン・ジュアン」を朗読する。1700年代のイギリスを生きていた頃の僕の目が反応をし出す。でも人はみんな藁人形。セルロイドの人形。蝋人形。あるときにそれらはみんなことごとく消えてなくなっている。跡をも残していない。もう人は連れて来ないことにする。雲を連れてくる。入り日の時の雲を。でも、雲は山もいっしょでなければつまらないというから、山も連れてくる。海も連れてくる。日も連れてくる。目の前の視界が赤くなる。こころの劇場空間があかあかと赤くなる。やっとやっと。これをずっとずっと見ている。
「ベスト・オブ・パガニーニ」バイオリン曲集を聞いている。夜明け方からずっと。小さい耳だから、もう耳の洞窟いっぱいになってしまった。
障子戸を開ける。外は明るくなっている。雨。草の葉を叩く雨の、小太鼓の音。冷たい朝風が吹き抜いて来る。寒い。
やわらかい雲を綿菓子にして砂糖をまぶして口に含んでいたらよかろうが、雲がいない。やわらかい人の心を空に浮かばせて、それを雲にして広げてみる。
日が射さないから、なかなか広がらない。縮れて広がってこない。ぬくもらない。濡れて湿気を含んで広がらない。
やわらかなあの人のこころを思って見るだけにする。すると、あの人の胸のやわらかい隆起が浮かんできて、そのてっぺんで火が噴いている。